帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔二百二十六〕やしろは(その二)

2011-11-12 00:06:12 | 古典

  



                               帯とけの枕草子〔二百二十六〕やしろは(その二)


 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言枕草子〔二百二十六〕やしろは

 
 ありとをしの明神、貫之がむまのわづらひけるに、この明神のやませ給とて、うたよみてたてまつりけん、いとをかし
 
(蟻通の明神は、貫之の馬が患ったときに、この明神が病ませ給うということで歌を詠んで奉ったそうで、とっても興味深い……在り通しの妙人は、貫之のむまが患ったときに、この妙人が病ませ給うということで、歌を詠んで奉ったそうで、とってもおかしい)。


 この「ありとをし」と付けたのは、まことでしょうか、昔いらっしゃった帝が、ただ若い人ばかりをお思いになられて、四十になった者をば都から失せるようにしてしまわれたので、地方の国の遠い所へ行き隠れるなどして、ついに都の内にはそのような者がいなくなってしまったときに、中将だった人が、たいそう時に適って栄えている人で、心などもしっかりしていたが、七十近い親二人をもっていたので、このように四十でさえ制約されること、まして恐ろしいと人々は怖じけ騒いでいるときに、たいそう孝ある人で親を遠い所には住ますことはできない、一日に一度は見なければいられそうもないと、密かに家の内の土を掘って、その内に屋を建てて親を籠もらせて、行ってはめんどう見ている。他人にも公にも失せ隠れている事情を他国と知らせてある。なぜか家に居る者にも本当のことは知らせられなかったのだ、普通ではなくなってしまった世の中だことよ。この親は上達部(大臣、大・中納言、参議、三位以上の者)などではなかったでしょう、中将を子にもっているのは、たいそう心がしっかりしていてよろずの事を知っていたためで、この中将も若かったけれど名声あり、きわめてしっかりしていて、時に適った人と帝はお思いになられていたのだった。
 
 唐の帝、この国の帝をなんとか謀してこの国を討ち取らんとして、常に試し事して勝負ごとをしかけては、恐れさせておられたが、艶々と滑らかに削った木の二尺ほどあるのを、「これの本末(元と先端)はどちらか」と問うて、それをわが国の帝に奉られたところ、誰も知るはずもなかったので、帝は思いわずらわれたとき、おきのどくで、中将は親のもとへ行って、こうこうの事がありますと言えば、「ただ流れの早い河に、立てて河に横ざまに投げ入れて、向きを変えて流れた方を末(先端)と記して、彼の国に遣わせよ」と教える。参上して我がものしり顔に「さて、試みてみましょう」と、人と連れだって投げ入れたところ、先にして行く方に印を付けて遣わしたところ、真にそのとおりであった。
  また、二尺ばかりのくちなは(蛇)の、ただ同じ長さのを「これは、いづれが男か、女か」ということで、唐の帝が・奉られた。また、さらさら人々見も知らず。例の中将、親もとに・来て問えば「二つを並べて、尾の方に細い若枝をさし寄せるときに、おを動かさない方を女と知れ」と言ったのだった。やがて、内裏の中にてそのようにすると、一つは動かず一つは動かしたので、またそのように印を付けて、彼の国に遣わしたのだった。

久しい間をおいて、七曲がりに入りくんでいる穴のある玉で、中を通って左右に口の開いている小さいのを奉って、「これに緒を通していただきましょう、この唐の国では皆している事です」ということで奉ったので、「たいそうなものの上手も役に立たないのである」と、そこらの上達部、殿上人、世にある人みな言うので、また親もとへ行って、「こうなんです」と言えば、「大きな蟻を捕まえて二匹ばかりの腰に細い糸を付けて、またそれにいま少し太いのを付けて、片方の穴の口に蜜を塗ってみよ」と言ったので、そのように中将は人に申して、穴に蟻を入れたところ、蜜の香りを嗅いで、まことにたいそう早く、蜜を塗った穴の口より出て来たのだった。
 さてその糸が貫かれたのを遣わした後なのだ、「やはり日の本の国はしっかりしている」ということで、後にはこのようなことはしなくなったのだった。  


 この中将をたいそうな人とお思いになられて、「何を為し、如何なる官位を賜せるべきか」と仰せられたので、「けっして官も冠も賜りません。ただ老いた父母が隠れ失せてございますのを尋ねて、都に住まわせる事をお許しください」と申し上げたので、「たいそうたやすい事」ということで許されたので、よろずの人の親がこれを聞いて喜ぶさまは大変なことだったのだ。中将は上達部、大臣にならせ給うたのだった。
 さて、その人(中将の親)が神となられたのだろうか、その神の御もとに詣でた人に、夜現れて宣われたのだった。

なゝわたにまがれる玉のをゝぬきて ありとをしとはしらずやあるらん

(七曲がりに曲がる玉の穴に、蟻が・緒を貫き通したので、蟻通しというとは知らないのだろうか……七曲に曲がれる玉のあなに、我は・おを貫き通して、健在で在り通したとは、知らないだろうか)。

と宣われたのよと人が語った。

言は聞き耳の数ほど戯れる。その中に「言の心」がある、心得よとは貫之が教え。

「明神…みゃうじん…妙人…優れた人…妙齢人…美しい若い女」「馬…うま…むま…武間…おとこ」「貫之がむま…貫之が乗っていた馬…貫之のうま…貫之の立派なおのこ」「ありとをし…ありとほし…(大空に)在りと星…(穴に緒を)蟻通し…(元気に)在り通し」「木…こ…おとこ」「河…川…水…女」「すばえ…若い枝…若い身の枝…若いおとこ」「お…尾…おとこ」。



 木の先は川の流れに向く。くちなはの雌は身の枝が無いので反応せず、雄はおを跳ね上げたのでしょう。「言の心」を心得えればわかる。

昔、ありとほし明神に祠さえなかった。そのころ貫之の詠んだ歌を聞きましょう。


 紀の国よりの帰りに此の地で、貫之の「馬」が患った。道行く人に聞けば、それは此処の「神のした給ふことならむ」という。祠も無く標しも見えないが、とっても気味の悪い神で、「以前から行わずらう人々ある所なり、祈り給え」という。幣もなくする術なければ、ただ手を清め、神の名を問えば、「ありとほしの神となん申す」と言ったので、歌を詠んで奉った。そのせいか馬は治ったのだった。

貫之集 巻第八

かきくもりあやめも知らぬ大空に ありとほしをば思ふべしやは

(社もなくどこにいらっしゃるのか、かき曇り道筋も知らない大空に在りと、星をば明神と思うべきなのか……真っ暗に曇り、筋道も知らぬ大空にでも、おとこは・在り通すと思うべきなのか)。

 「大空…大おんな」「空…天…女」「ありとほし…在りと星…在り通し…健在であり続ける」。


 今や、蟻通明神は和泉国の日根野近くの長滝という所に立派な神社がある。
 興味深い伝説は残されているでしょう。しかし「ありとほし」は「蟻通」となり、もはや「有りと星…在り通し」と詠んだ貫之の歌言葉の戯れは、
残念ながら消えて、知らないことでしょう。


 伝授 清原のおうな

 聞書 かき人知らず (2015・10月、改定しました)
 
 原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。