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帯とけの枕草子〔二百二十四〕清水にこもりたりしに
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
清少納言枕草子〔二百二十四〕清水にこもりたりしに
清水(清水寺)に籠もっていたときに、わざわざ御使をよこされて賜わされた。唐の紙の赤味のあるのに、草書にて、
山ちかき入あひのかねのこゑごとに こふるこゝろの数はしるらん ものを、こよなのながゐや
(山近き寺の夕暮れの鐘の音毎に、そなたを・恋う心の数は知っているでしょうに、これ以上ない長居ですね……山ば近き入り合いの高鳴る声ごとに、乞う女心の数の多さは知っているのでしょうねえ、それで・このうえもない長居なのかな)。
と、お書きになっておられる。紙などの格別なものは取り忘れた旅なので、むらさきなるはちすのはなびら(紫の蓮の花びら)に、お返事を書いて参らせる。
言の戯れと言の心
「清水…清水寺…清い水…清いをみな」「水…女」「やま…山…やまば」「入あひ…入り相…夕暮れ時…夕焼けどき…赤く染まるとき…紙の赤色…入り合い」「合…和合」「かね…山寺の鐘…山ばでの胸の高鳴り」「こふるこころの数…女がこいねがう愛情の数…十や百などもののかずではない数…多情の数」「こふ…恋う…乞う」「数…多数」「紫の蓮の花びら…高貴で清く澄んだ花びら…濁りに染まらぬ清く澄んだもの」。
返事の文字は書いていないけれど、「泥沼の濁る我が心が、紫の蓮の花になるための長居でございます」、これは清げな返事。「多情に濁る我が心を、清めるための長居でございます」、これは心におかしきところへの返事。
すぐれた言葉には「清げな姿」と「心におかしきところ」がある。深き心は、「いまだ情報収集ならず、長居をしております」とお答えすべきことかも。参詣に来る人のありさまを観察し、読み上げられる人の願文を聞いていれば、その人の情況がわかる。
紫の蓮の花のようなお方の、すぐれた御言葉を思い出し記している。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人知らず (2015・10月、改定しました)
原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。