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帯とけの新撰和歌集
歌言葉の戯れを知らず、紀貫之の云う「言の心」を心得ないで、和歌の清げな姿のみ解き明かされて来た。藤原公任は、歌には心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。言の心を紐解きましょう。帯はおのずから解け人の心根が顕れる。
紀貫之 新撰和歌集巻第一 春秋 百二十首(百五と百六)
よそに見てかへらむ人に藤の花 はいまとはれよ枝は折るとも
(百五)
(よそよそしく見物して、帰るような人に、藤の花、這いまとわり付けよ、わが蔓の枝は折れても……よそよそしく見て、帰るような男に、女花、這いまとわり付けよ、男の身の枝折れようとも)。
言の戯れと言の心
「見…覯…媾…まぐあい」「人…人々…男」「藤の花…つる枝の花…女花」「枝…つる枝…女花の枝…身の枝…おとこ」「折るとも…折れても…へし折ってでも」「折…逝」。
きても見む人のためにとおもはずは 誰かからましわがやどの草
(百六)
(来ては見物するだろう人の為にと思わなければ、誰が刈るだろうか、我が宿の草……来てもいきても見よう、ひとのためにと思わなければ、誰が涸るだろうか、わがやどの女よ)
言の戯れと言の心
「きても…来ても…極みが来ても…果てが来ても…何が来ても」「見…覯…媾…交」「む…推量を表す…意志を表す」「人…人々…女」「かる…刈る…引く…採る…めとる…枯れる…涸れる」「草…女よ…女たちよ」。
春歌の姿はともかくとして、もとよりおとこは、ひとを山ばの頂上に送り届けるために奉仕すべきもの、よそ見する物に容赦は要らないぞ、と聞いて心におかしいでしょう。法師の作。
秋歌の姿もともかくとして、多数の女たちが侍る館の主人の歌と聞けば、心におかしいでしょう。帝の御歌と伝わる。
この撰集の歌は、花と実を相兼ねて、実は言の戯れに包まれ「玄之又玄」である。その艶なるところを楽しむために、撰ばれ並べられてある。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九 新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。