帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集 巻第一 春秋 (百十七と百十八)

2012-05-24 00:04:54 | 古典

  



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集巻第一 春秋 百二十首(百十七と百十八)


 年ごとになきてもなにぞ呼子鳥 呼ぶにとまれる花ならなくに 
                                    (百十七)

 (年毎に、鳴いてまでも何をぞ、よぶこ鳥、呼べば散り止まる花ではないのに……疾し毎に、泣いてまでも、何を呼ぶ子とり、喚びとめれば、散らないお花ではないことよ)。


 言の戯れと言の心

 「とし…年…疾し…早過ぎ」「なき…鳴き…無き…泣き」「呼子鳥…鳥の名…名は戯れる、子を呼ぶとり、おとこを呼ぶ女、子を且つ乞う女」「よぶ…呼ぶ…喚ぶ…よび寄せる」「子…子供…君子…この君…おとこ」「鳥…女」「花…木の花…男花…おとこ花」「とまる…留まる…止まる…踏みとどまる」「ならなくに…ではないことよ…ではないのに」。
 呼ぶ子鳥は、子を呼ぶ女、おとこを呼ぶ女などということは、古今伝授の秘伝となって埋もれた。鳥の言の心が女などとは、近代人には受け入れ難いので、呼子鳥は何鳥かを探し求めることになるが、不明のままうち過ぎて久しい。探求の方向を間違えているのである。

 


 龍田川もみぢみだれて流るめり わたらば錦中やたえなむ 
                                    (百十八)

(龍田川、黄葉紅葉、乱れて流れるようね、渡れば、錦織、中ほどできっと絶えるでしょう……絶ったかは、飽き色の端、みだれて流れるように思える、わたれば、錦木、なかばや、いや最後まで、耐えてほしい)。


 「たつたかは…龍田川…川の名、名は戯れる、立つ多川、多つ田かは、絶ったかは」「田…女…多」「川…女…かは…疑問を表す」「もみぢ…黄葉紅葉…飽き色」「みだれて…乱れて…身垂れて」「わたる…渡る…女の許へゆく」「めり…見える…思える」「にしき…錦…錦織…綺麗な織物…錦木…男木」「なか…中…なかば…仲」「たえなむ…きっと絶えるだろう…耐えてほしい…踏み止まってほしい」「たえ…絶え…耐え」「なむ…確実な推量を表す…相手に希望する意を表す」。



 歌の清げな姿は、散る花のはやしに鳴く呼子鳥の風情と、色とりどりのもみじ葉流れる龍田川の景色。

 
 和歌は唯それだけではない。心におかしきところは、おとこの、はかないさがを嘆く女の色情。


 藤原俊成のいうように、歌言葉は浮言綺語の戯れに似ているけれども、そこに歌の深い趣旨も顕れる。

 
 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。