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帯とけの新撰和歌集
歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。
紀貫之 新撰和歌集巻第一 春秋 百二十首(百十九と百二十)
声たえずなけや鶯ひととせに ふたたびとだに来べき春かは
(百十九)
(声絶えないで鳴けよ、鶯、一年に再び来ることのできる春の季節だろうか……こゑ絶やさず、泣けよ、浮くひすひと、ひとと背に二度くることのできる春の情だろうか)。
言の戯れと言の心
「こゑ…声…越え…小枝…おとこ」「なく…鳴く…泣く」「うぐひす…鶯…鳥の名、名は戯れる、春告げ鳥、憂く干す、浮く火す」「鳥…女」「す…女」「ひととせ…一年…人と背…おとなの女と男」「はる…季節の春…青春…春情…張る」「かは…感嘆を含んだ疑問の意を表す」。
夕月夜をぐらの山になくしかの 声のうちにや秋はくるらむ
(百二十)
(夕月夜、小倉の山で鳴く鹿の、声のうちにかな、秋は来ているのだろう……結う尽く夜、お暗い山ばに、泣く肢下の、声のうちにや、小枝のうちにか、飽きは来ているのだろう)。
「ゆふつくよ…夕月夜…秋の夕方に出る月…うすぼんやりとしている…結う尽くよ」「ゆふ…むすぶ…ちぎりをむすぶ」「月…つき人をとこ…壮士…おとこ」「をぐらのやま…小倉山…山の名、名は戯れる、小暗い山、お暗い山ば」「しか…鹿…雌鹿(牡鹿は、さを鹿と詠まれる)…肢下…身の下」「こえ…声…越え…小枝…身の小枝…おとこ」「あき…秋…飽き…飽き満ち足り…厭き」「らむ…今ごろ何々だろう…現在の事柄を推量する意を表す」。
春歌の鶯の声の風情と、秋歌の鹿の鳴く風情は清げな姿。和歌は唯それだけではない。
おとこのはかない一過性のさが、成り難い和合のありさまは、歌の心におかしきところ。
以上で、巻第一 春秋百二十首の伝授を終える。撰した歌について、「花実相兼」「玄之又玄」「非唯春霞秋月」「漸艶流於言泉」「絶艶之草」などと、漢文序で述べられていることが、一々の歌から実感できたでしょうか。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九 新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。