帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集 巻第一 春秋 (百十九と百二十)

2012-05-25 00:18:17 | 古典

  



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集巻第一 春秋 百二十首(百十九と百二十)


 声たえずなけや鶯ひととせに ふたたびとだに来べき春かは 
                                    (百十九)

(声絶えないで鳴けよ、鶯、一年に再び来ることのできる春の季節だろうか……こゑ絶やさず、泣けよ、浮くひすひと、ひとと背に二度くることのできる春の情だろうか)。


 言の戯れと言の心

 「こゑ…声…越え…小枝…おとこ」「なく…鳴く…泣く」「うぐひす…鶯…鳥の名、名は戯れる、春告げ鳥、憂く干す、浮く火す」「鳥…女」「す…女」「ひととせ…一年…人と背…おとなの女と男」「はる…季節の春…青春…春情…張る」「かは…感嘆を含んだ疑問の意を表す」。



 夕月夜をぐらの山になくしかの 声のうちにや秋はくるらむ 
                                     (百二十)

(夕月夜、小倉の山で鳴く鹿の、声のうちにかな、秋は来ているのだろう……結う尽く夜、お暗い山ばに、泣く肢下の、声のうちにや、小枝のうちにか、飽きは来ているのだろう)。 


 「ゆふつくよ…夕月夜…秋の夕方に出る月…うすぼんやりとしている…結う尽くよ」「ゆふ…むすぶ…ちぎりをむすぶ」「月…つき人をとこ…壮士…おとこ」「をぐらのやま…小倉山…山の名、名は戯れる、小暗い山、お暗い山ば」「しか…鹿…雌鹿(牡鹿は、さを鹿と詠まれる)…肢下…身の下」「こえ…声…越え…小枝…身の小枝…おとこ」「あき…秋…飽き…飽き満ち足り…厭き」「らむ…今ごろ何々だろう…現在の事柄を推量する意を表す」。



 春歌の鶯の声の風情と、秋歌の鹿の鳴く風情は清げな姿。和歌は唯それだけではない。


 おとこのはかない一過性のさが、成り難い和合のありさまは、歌の心におかしきところ。


 以上で、巻第一 春秋百二十首の伝授を終える。撰した歌について、「花実相兼」「玄之又玄」「非唯春霞秋月」「漸艶流於言泉」「絶艶之草」などと、漢文序で述べられていることが、一々の歌から実感できたでしょうか。



 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず

  
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九 新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。