帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第八 恋下 (三百七十五)

2015-09-02 00:17:29 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

平安時代の「拾遺抄」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読む。

 

拾遺抄 巻第八 恋下 七十四首

 

          題不知                         読人も

三百七十五 世の中をかくいひいひのはてはては いかにやいかにならんとすらむ

          題しらず                    (よみ人も知らず・男の歌として聞く)

(男と女の仲の事を、このように、あれこれ言い合っての果ての果ては、どのように為そうとするのだろうか……夜の中に掻く好い好いという尽き果ては、どのようにか、どのようにか、身を成ろうとするのだろう・山ばの頂点に、片や萎えるだろう)

 

言の戯れと言の心

「世の中…男女の仲…夜の仲…夜の中」「かく…斯く…掻く…こぐ…押し分け進む」「いひいひ…言ひ言ひ…いいいい…良い好い…快快…いういう…優優…優れている…ご立派ご立派」「はてはて…果て果て…尽き果て…ことの終り」「いかにやいかに…如何にや如何に…どのようにか…どういうふうにか」「なる…為る…成る…為し得る…実現する…(極まった)状態に成る…(京の宮こに)成る…萎る…なえる…(片やおとこは)よれよれとなる」「ならん…為そう」「ん…む…意志を表す」「らむ…推量の意を表す…推量の形で婉曲に述べる」

 

歌の清げな姿は、女と男が、物に寄せて、物に包んでとはいえ、本音を聞かせ合い(相聞し)、どう成ろうとするのだろう。

心におかしきところは、愛しい妻は、いいいいの果て果ては、どのような「京の宮こ」に成ろうとするのだろう。おとこは萎えるだろう。

 

このように聞けば、恋歌上下(六十五首+七十四首)の最後に置く歌に相応しい。

 

この歌は、部立ての異なる『拾遺集』では、巻第八「雑上」と、巻第二十「哀傷」の二か所に、同じ歌が置かれてあるが、決して、誤りや見過しではない。

女も男も、果ては「京の宮この、感の極みに成るさま」を詠んだとすれば「雑歌」に相応しい。又、女は「あげくの果てに水の泡とはじけ消え、男は萎え果てる」歌とすれば、「哀傷歌」に相応しい。「女の言葉(和歌の言葉)は、聞き耳異なるもの」であるという文脈に入り、歌の複数の意味を聞き取れれば、この歌の扱われ方がよく理解できる。

 

以上で、「拾遺抄」巻第八恋下は終り。次は「雑歌」である。

 


 『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。


 

平安時代の言語観と歌論について述べる(以下、再掲)


 紀貫之は、「言の心」を心得る人は、和歌のおかしさがわかり、古今の歌を「恋ひざらめかも…恋しくならないだろうか・なるだろう」と述べた。「言の心」とは字義だけではない、この文脈で言葉の孕む全ての意味である。国文学は「事の心」として、全く別の意味に聞き取ったようである。

 清少納言は、「同じ言なれども、聞き耳異なるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉(同じ言葉でも、聞く耳によって聞き取る意味が異なるもの、それが我々の言葉である)」。このように枕草子(三)に超近代的ともいえる言語観を述べているのである。枕草子に、そのような言葉を利用して「をかし」きことを数々記している。それは、和歌の方法でもある。国文学の枕草子の読み方では、皮肉なことに、この一文をも「同じ言葉でも、性別や職域の違いによって、耳に聞こえる印象が異なる」などと聞こえるようである。

藤原俊成は、「歌の言葉は、浮言(浮かれた言葉・定まりのない言葉)や、綺語(真実を隠し巧みに飾った言葉)に似た戯れであるが、其処に、歌の旨(主旨・趣旨)が顕れる」と述べた。顕れるそれは、言わば煩悩であると看破した。

 国文学が曲解し無視した、上のような言語観に立って、藤原公任の「優れた歌」の定義に従って、公任撰「拾遺抄」の歌を聞けば、歌の「清げな姿」だけでなく、「心におかしきところ」が聞こえる。歌には、今まで聞こえなかった、俊成が煩悩であるという生々しい心が顕れる。

中世に古今和歌集の「歌言葉の裏の意味と心におかしきところ」が秘伝となったのである。やがて、その相伝や、口伝も埋もれ木となってしまった。秘伝の解明が不可能ならば、それ以前に回帰すればいいのである。近世の国学と国文学は、平安時代の言語観と歌論とを無視して、全く異なる文脈にある。その人々の創り上げた和歌解釈やその方法は、根本的に間違っている。