帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (四百二十一)(四百二十二)

2015-09-29 00:43:12 | 古典

          

 

                         帯とけの拾遺抄


 

藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読んでいる。

公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という、優れた歌の定義に表れている。勅撰集に採られるような歌には、必ずこの三つの意味が有るだろう。

今の国文学の和歌解釈方法は棚上げしておくが、やがて、平安時代にはあり得ない奇妙な表層のみの解釈であることに気付くだろう。すでに、江戸時代に解釈方法を根本的に間違えていたのである。

 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首

 

蔵人所に候ひける人のひをのつかひにまかりけりとて京に侍りながら

おとし侍らざりければ                (読人不知)

四百二十一 いかでなほあじろのひをにこととはん なにによりてかわれをとはぬと

宮中の蔵人所にいた男が「氷魚の使」となって、(宇治川辺りへ)行ったということで、京に居ながら、音沙汰なかったので、(よみ人しらず・とうぜん、女の歌として聞く)

(どうしてもやはり、網代の氷魚に事の理由を問いたい、何が原因で・この人は、わたしを訪れないのかと……いかで・どうしたの、汝お、吾が寄処の、つめたく弱々しい憂お、事の始末を問いたい、いまは・何に寄りついて、わたしを訪れないのかと)

 

言の戯れと言の心

「いかで…如何で…どうして…なぜ…どうなって…逝かず」「で…によって…原因理由などを示す…ずして…打消しを表す」「なほ…猶…汝ほ…このおとこ」「あじろのひを…網代の氷魚…初冬に仕掛け網でとる小魚…吾じろに寄りくるうお」「いを・うを・ひを、魚の言の心はおとこ」「なにによりて…何に因って…どこのおんなに寄って」

 

歌の清げな姿は、音沙汰のない「氷魚の使」のそのわけを氷魚に問うた。

心におかしきところは、恋人の、身を心配する心、いらだち、嫉妬など女の心根が見事に顕れているところ。

 

 

ものねたみし侍りけるをんな、をとこはなれ侍りて後に、きくの

うつろひてはべりけるをつかはすとて        読人不知

四百二十二 おいのよにうき事きかぬ菊だにも うつろふ色は有りけりとみよ

何かを妬む心のあった女、男が離れて行った後に、菊の枯れそうになっていたのを遣ると言う事で、(よみ人しらず・女の詠んだ歌として聞く)

(老いの世に、長寿の花で・憂い言聞かない菊であっても、移ろい衰えゆく、男への・気色は有るのだと気付き思え・これを見て……感極まる夜に、浮き言聞かない女花でも、君への・衰えゆく色情も色欲もあったのだと気付き思え)

 

言の戯れと言の心

「おい…老い…年齢の極み…ものの極み…感の極み」「よ…世…無常な世…夜」「うき事…憂き言…浮き言」「菊…長寿な草花…一年に二たび変わる色を楽しめるという女花…桜花のように慌しく咲き散る男花と比べて見ると分かる…菊の露を綿に付けて身を拭えば若がえるとか、紫式部もそうした可能性が有る、道長の北の方より、その綿を贈られている」「色…色彩…気色・気持…色情・色欲」「けり…気付き・詠嘆の意を表す」「みよ…(この色変わりした女花を)見よ…思え…(この度の若い女を)見よ・めんどうみとけ、いづれ色変わりする」「見…覯…媾…まぐあい」

 

歌の清げな姿は、色衰える菊の花を見て気付け、古妻といえども、女の色気はあったことを。

心におかしきところは、老いから逃れられない世、感の極みにそのおんなの浮き言聞こえぬ夜が来ることに気付き思え。


 

歌の「清げな姿」の表層しか見えていなければ、もとよりそれは歌では無い、ただの文句である。歌には衣の内に「包まれた」生々しい人の心が顕れる。時には、人の深い心根えさえ顕れるものである。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。


 

和歌の解釈について述べる(以下の主旨は再掲載である)


 紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って、平安時代の
和歌の表現様式を考察すると次のように言える。「常に複数の意味を孕むやっかいな言葉を逆手にとって、歌に複数の意味を持たせる高度な文芸である。視覚・聴覚に感じる景色や物などに、寄せて(又は付けて)、景色や物の様子なども、官能的な気色も、人の深い心根も、同時に表現する。エロチシズムのある様式である」。

万葉集の人麻呂、赤人の歌は、この様式で詠まれてある。彼らが高め確立して広めた様式である。ゆえに彼らを「歌のひじり」と貫之は言う。

歌は世につれ変化する。古今集編纂前には「色好み歌」と化したという。「心におかしきところ」のエロス(性愛・生の本能)の妖艶なだけの歌に堕落し、「色好みの家に埋もれ木」となった。そこから歌を救ったのは、紀貫之ら古今集撰者たちである。平安時代を通じて、その古今和歌集が歌の根本となった。三百年程経って新古今集が編纂された後、戦国時代を経て、再び歌は「歌の家に埋もれ木」となり、一子相伝の秘伝となったのである。江戸時代の賢人達は、その「秘伝」を切り捨てた。伝授の切れ端からは何も得られないから当然であるが、同時に「貫之・公任の歌論や、清少納言や俊成の言語観」をも無視した。彼らの歌論と言語観は全く別の文脈にあったので曲解したためである。それを受け継いだ国文学の和歌の解釈方法は、序詞、掛詞、縁語などを修辞にして歌は成り立っていたとする。その解釈と方法は世に蔓延して現在に至る。

公任の云う「心におかしきところ」と、俊成の云う「浮言綺語の戯れ似た戯れの内に顕れる」という言葉にあらわされてある、和歌のほんとうの意味は、埋もれ木のままなのである。和歌こそは、わが国特有の、まさに、文化遺産であるものを。