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帯とけの拾遺抄
平安時代の「拾遺抄」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読む。今の国文学の和歌解釈方法は棚上げしておく。やがて、平安時代にはあり得ない奇妙な方法であることに気付くだろう。
拾遺抄 巻第九 雑上 百二首
延喜御時、飛香舎にて藤花の宴ありけるに、人人わかつかまつりけるに
小野宮大臣
四百二 うすくこくみだれてさけるふぢの花 ひとしき色はあらじとぞおもふ
延喜の御時に飛香舎(藤壺)にて、藤花の宴があったときに、人々、和歌を作ったので、 (小野宮大臣・藤原実頼・公任の祖父)
(薄く濃く、乱れて咲いた藤の花、同じ色は、ないだろうと思う……情薄く情厚く、乱れて咲いたおとこ花、同じ色情は、二つとないと思う)
言の戯れと言の心
「うすく…(藤の花の色彩)薄く…(おとこ花の色情)薄く」「こく…色彩濃く…色情濃く」「ふぢの花…藤の花…おとこ花…不二の花…二つとない花」「色…色彩…色情」
歌の清げな姿は、紫でも濃淡微妙に違う藤の花の色彩。
心におかしきところは、おとこ花の色情は、十人十色。
郭公をききてよみ侍りける 坂上郎女
四百三 郭公いたくななきそひとりゐて いのねられぬにきけばくるしも
郭公を聞いて詠んだ (大伴坂上郎女・万葉集の女流歌人の第一人者・家持の義母)
(郭公、甚だしく鳴くな、独り居て、寝るに眠れないので、その声・聞けば苦しいのよ……ほと伽す・且つ乞う、ひどく鳴かないでよ、独り居て、寝るに寝られないのに、そんな声・聞けば胸が苦しいよ)
言の戯れと言の心
「郭公…ほととぎす…鳥の言の心は女…名は戯れる。ほと伽す、且つ乞う」「ほ…おとこ」「と…おんな」「こう…恋う…乞う…求める」「いたくななきそ…ひどく鳴くな…痛ましく鳴くな…愛おしそうに鳴くな」「い…寝」「ね…寝」「も…意味を強める…詠嘆を表す」
歌の清げな姿は、夏の夜の独り寝、かつこうの声が喧しく眠れない。
心におかしきところは、独り寝の夜に、愛おしそうな声で、且つ乞うなどと鳴くな。
「郭公」や「ほととぎす」などに、上のような戯れの意味が有ったか無かったかは、理屈で決まることではない。戯れの意味を心得て居て、その意味で通用していた文脈が有ったか無かったかを知ることである。万葉集から平安時代の郭公の歌すべてを、上の意味で通用していたかどうかで、意味の有無は決まる。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。
和歌解釈の変遷について述べる(以下再掲載)
江戸時代の国学から始まる国文学的な古典和歌解釈は、平安時代の歌論や言語観から遠く離れてしまった。
和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を逆手にとって、歌に複数の意味を持たせる高度な文芸のようである。視覚・聴覚に感じる景色や物などに、寄せて(又は付けて)、景色や物の様なども、官能的な気色も、人の深い心根も、同時に表現する。エロチシズムのある様式のようである。万葉集の人麻呂、赤人の歌は、明らかに、この様式で詠まれてある。
歌は世につれ変化する。古今集編纂前には「色好み歌」と化したという。「心におかしきところ」のエロス(性愛・生の本能)の妖艶なだけの歌に堕落していた。これを以て、乞食の旅人は生計の糧としたという。歌は門付け芸と化したのである。歌は「色好みの家に埋もれ木」となったという。そこから歌を救ったのは、紀貫之ら古今集撰者たちである。人麻呂、赤人の歌を希求し、古今集を編纂し、歌を詠んだ。平安時代を通じて、その古今和歌集が歌の本となった。三百年程経って新古今集が編纂された後、戦国時代を経て、再び歌は「歌の家に埋もれ木」となり、一子相伝の秘伝となったのである。
江戸時代の賢人達は、その「秘伝」を切り捨てた。伝授の切れ端からは何も得られないから当然であるが、同時に「貫之・公任の歌論や、清少納言や俊成の言語観」をも無視した。彼らの歌論と言語観は全く別の文脈にあったので曲解したためである。それを受け継いだ国文学の和歌の解釈方法は、序詞、掛詞、縁語などを修辞にして歌は成り立っていたとする。それが、今の世に蔓延ってしまった(高校生の用いる古語辞典などを垣間見れば明らかである)。平安時代の人が聞けば、奇妙な解釈に、笑いだすことだろう。
公任の云う「心におかしきところ」と「浮言綺語の戯れ似た戯れの内に顕れる」と俊成の云う事柄と共に、和歌のほんとうの意味は、埋もれ木のままなのである。和歌こそは、わが国特有の、まさに、文化遺産であるものを。