帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (四百二十三)(四百二十四)

2015-09-30 00:10:01 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読んでいる。

公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という、優れた歌の定義に表れている。勅撰集に採られるような歌には、必ずこの三つの意味が有るだろう。

今の国文学の和歌解釈方法は棚上げしておくが、やがて、平安時代にはあり得ない奇妙な表層のみの解釈であることに気付くだろう。すでに、江戸時代に解釈方法を根本的に間違えていたのである。

 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首

 

天暦御時に伊勢が家の集めしければたてまつるとて       中務

四百二十三 しぐれつつふりにしやどのことのはは かきあつむれどたまらざりけり

        天暦の御時に、伊勢の家の歌集を、お召しになられたので奉るとて (中務・伊勢の娘)

(しぐれつつ・しょぼしょぼと、降ったわが家の言の葉は、枯葉のように流れて・掻き集めても、溜まらなかったことよ……その時のお雨、降りつつ・古びた女の、遺した浮き・言の葉は、沢山あっても、はずかしくて・たまらないことよ)

 

言の戯れと言の心

「しぐれ…時雨…初冬の冷たい雨…厭き果てて降るお雨」「ふりにし…降った…古くなった」「やど…宿…わが家…宿(屋・戸・門)の言の心は女…おんな」「ことのは…言の葉…歌…文」「かき…掻き…書き」「あつむれ…集める…多くつみ重なる…沢山になる」「たまらざり…溜まらない…流布した…流れて消えた…たまらない…こらえられない…たえきれない」「けり…気付き・詠嘆を表す」

 

歌の清げな姿は、しぐれに散り落ちた古びた言の葉、掻き集めても残っていなかった・書き集めました(謙遜、謙譲の心を添えて母の歌集を献上)。

心におかしきところは、母の古びた「浮言綺語」の戯れ、かき集めたけれど、はずかしくて・たまらないことよ。

 

 

御製

四百二十四 むかしよりなたかきやどのことのはは このもとにこそおちつもるといへ

(天暦御製・村上天皇の御返し)

(昔より、名高い家の言の葉は子供の許にこそ、落ち積ると言う・その通りだなあ……むかしをはじめ、いまも・名高き、おんなの言の葉は、子の許におちつもるとはいえ・おとこのもとだったかも)


 言の心と言の戯れ
 「むかし…「より…「やど…宿…「ことのは…言の葉…和歌」「このもと…子の許…木の許…おとこの許」「といへ…と言えば世の常…とは言っても」

 

歌の清げな姿は、なるほど、沢山、書きあつめてくれたね。(ねぎらいの御言葉)

心におかしきところは、男どもを魅了した、名高い女の言の葉、この許につもるとはいえ(女性に頼むべきではなかったかも)。


 

村上天皇の御祖父、宇多天皇の寵愛を受けた伊勢の御は、多くの男や女たちに「心におかしい」と思わせる歌を詠んだ。古今和歌集の女流歌人の第一人者。

伊勢集より一首聞きましょう。「思ふことありけるに」詠んだ歌。

身のうきをいはばはしたになりぬべし 思へば胸のくだけのみする

(我が身の憂き事を言えば、はしたない言葉になるでしょう、思えば胸がはりさけるばかり……身の浮きを、言葉に出せば、はしたないでしよう、思えば、武根が砕けるばかりの、見をする)

 

「身…心身の内の身の方…見…覯…媾…まぐあい」「うき…憂き…つらい・いやだ…浮き…浮かれた」「胸…むね…武根…強いおとこ」「くだけ…砕ける…心砕く…身を砕く…武根を砕く(普通は折るという)」「のみする…ばかりである…の見する…の覯する」


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。


 

和歌の解釈について述べる(以下の主旨は再掲載)


 紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って、平安時代の
和歌の表現様式を考察すると次のように言える。「常に複数の意味を孕むやっかいな言葉を逆手にとって、歌に複数の意味を持たせる高度な文芸である。視覚・聴覚に感じる景色や物などに、寄せて(又は付けて)、景色や物の様子なども、官能的な気色も、人の深い心根も、同時に表現する。エロチシズムのある様式である」。

万葉集の人麻呂、赤人の歌は、この様式で詠まれてある。彼らが高め確立して広めた様式である。ゆえに彼らを「歌のひじり」と貫之は言う。

歌は世につれ変化する。古今集編纂前には「色好み歌」と化したという。「心におかしきところ」のエロス(性愛・生の本能)の妖艶なだけの歌に堕落し、「色好みの家に埋もれ木」となった。そこから歌を救ったのは、紀貫之ら古今集撰者たちである。平安時代を通じて、その古今和歌集が歌の根本となった。三百年程経って新古今集が編纂された後、戦国時代を経て、再び歌は「歌の家に埋もれ木」となり、一子相伝の秘伝となったのである。江戸時代の賢人達は、その「秘伝」を切り捨てた。伝授の切れ端からは何も得られないから当然であるが、同時に「貫之・公任の歌論や、清少納言や俊成の言語観」をも無視した。彼らの歌論と言語観は全く別の文脈にあったので曲解したためである。それを受け継いだ国文学の和歌の解釈方法は、序詞、掛詞、縁語などを修辞にして歌は成り立っていたとする。その解釈と方法は世に蔓延して現在に至る。

公任の云う「心におかしきところ」と、俊成の云う「浮言綺語の戯れ似た戯れの内に顕れる」という言葉にあらわされてある、和歌のほんとうの意味は、埋もれ木のままなのである。和歌こそは、わが国特有の、まさに、文化遺産であるものを。