帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (四百)(四百一)

2015-09-17 00:15:38 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

平安時代の「拾遺抄」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読む。今の国文学の和歌解釈方法は棚上げしておく。やがて、平安時代にはあり得ない奇妙な方法であることに気付くだろう。

 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首

 

延喜御時にふじつぼにて藤花の宴せさせ給ひけるに殿上のをのこども

わかつかうまつりけるに                蔵人国章

四百  藤のはなみやのうちにはむらさきの くもかとのみぞあやまたれける

延喜の御時(897930)に、藤壺にて藤花の宴を催された時に、殿上の男ども和歌を奉ったので、(蔵人国章・醍醐天皇にお仕えした人・藤原国章の若い頃の歌)

(藤の花、宮の内では、紫の雲かとばかり見間違えることよ……不二のおとこ花、宮こでは、澄んだ色の心雲かとばかり、みまちがえていたなあ・あゝま垂れける)

 

言の戯れと言の心

「藤…夏の木の花(花房は垂れている)…男花…春過ぎて咲くおとこ花…不二…不死」「紫…藤の花の色…澄んだ色…高貴な色…稀な色…邪気のない色」「みやのうち…宮の内…宮中…宮こ…極まったところ…感の極みどころ」「くも…空の雲…風雲…心雲…心に煩わしくも湧き立つもの…いわば煩悩…ご来迎の仏の乗り給うのは紫雲」「あやまたれけれ…過ちをしたことよ…間違えるたことよ…見間違えたことよ…あや、間垂れけり」「あや…感嘆詞…あゝ」「ま…間…股間」「ける…けり…気付き・詠嘆の意を表す」

 

歌の清げな姿は、宮内での宴(うたげ)に初めて列席しての感想だろう。国章、十数歳の時。

心におかしきところは、宮の内で酒のみ歌舞の遊びに酔った男どものありさま。

 

 

百首歌中に                     源重之

四百一 夏にこそさきかかりけれふぢのはな 松にとのみもおもひけるかな

百首詠んだ歌の中に                (源重之・冷泉天皇の皇太子時代に奉った歌)

(夏にこそ、咲き掛かった藤の花、松にとだけ、思ったのだなあ……春の情すぎて・なずむ頃にこそ咲き掛かったことよ、不二のおとこ花、女が・待つのでと、思ったのだなあ)

 

言の戯れと言の心

「夏…春過ぎた…撫づ…なづむ…いきなやむ」「さきかかり…咲き掛かり…花房垂れ掛かり」「ふぢのはな…藤の花…不二のおとこ花」「松…待つ…言の心は女」「かな…感動を表す…詠嘆を表す」

 

歌の清げな姿は、花房長く松に垂れ掛かった藤の花、夏の景色。

心におかしきところは、張る過ぎたおとこ花のなづむありさま。


 

藤原定家の撰んだ「百人一首」の源重之の歌を聞きましょう。

風をいたみ岩うつ波のおのれのみ くだけて物を思ふころかな

(風が痛いほどなので、岩打つ波が、自分で砕け散っている、我も独り・心くだき悩む、この頃だなあ……心に吹く風が苦痛なので、岩の女うつ、我が汝身の、おのれだけ射ち砕けて、物をあわれと思うころだなあ)

「風…海風…心に吹く風」「岩・石…言の心は女」「なみ…波…汝身…我が身…並みの物…我がおとこ」「おのれのみ…独り先だって…連れずに」「くだけて…砕け散って…心くだけて…思い乱れて…身を砕いて…な身果てて」


 この源重之の歌二首に共通しているのは、男の「エロス」を詠んで、艶にもあわれにも聞こえることである。

 

 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。


 

和歌解釈の変遷について述べる(以下再掲載)


 江戸時代の国学から始まる国文学的な古典和歌解釈は、平安時代の歌論や言語観から遠く離れてしまった。

和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を逆手にとって、歌に複数の意味を持たせる高度な文芸のようである。視覚・聴覚に感じる景色や物などに、寄せて(又は付けて)、景色や物の様なども、官能的な気色も、人の深い心根も、同時に表現する。エロチシズムのある様式のようである。万葉集の人麻呂、赤人の歌は、明らかに、この様式で詠まれてある。

歌は世につれ変化する。古今集編纂前には「色好み歌」と化したという。「心におかしきところ」のエロス(性愛・生の本能)の妖艶なだけの歌に堕落していた。これを以て、乞食の旅人は生計の糧としたという。歌は門付け芸と化したのである。歌は「色好みの家に埋もれ木」となったという。そこから歌を救ったのは、紀貫之ら古今集撰者たちである。人麻呂、赤人の歌を希求し、古今集を編纂し、歌を詠んだ。平安時代を通じて、その古今和歌集が歌の本となった。三百年程経って新古今集が編纂された後、戦国時代を経て、再び歌は「歌の家に埋もれ木」となり、一子相伝の秘伝となったのである。

江戸時代の賢人達は、その「秘伝」を切り捨てた。伝授の切れ端からは何も得られないから当然であるが、同時に「貫之・公任の歌論や、清少納言や俊成の言語観」をも無視した。彼らの歌論と言語観は全く別の文脈にあったので曲解したためである。それを受け継いだ国文学の和歌の解釈方法は、序詞、掛詞、縁語などを修辞にして歌は成り立っていたとする。それが、今の世に蔓延ってしまった(高校生の用いる古語辞典などを垣間見れば明らかである)。平安時代の人が聞けば、奇妙な解釈に、笑いだすことだろう。

公任の云う「心におかしきところ」と「浮言綺語の戯れ似た戯れの内に顕れる」と俊成の云う事柄と共に、和歌のほんとうの意味は、埋もれ木のままなのである。和歌こそは、わが国特有の、まさに、文化遺産であるものを。