■■■■■
帯とけの拾遺抄
平安時代の「拾遺抄」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読む。今の国文学の和歌解釈方法は棚上げしておく。やがて、平安時代にはあり得ない奇妙な方法であることに気付くだろう。
拾遺抄 巻第九 雑上 百二首
坂上郎女につかはしける 大伴たむらの御女
四百四 ふるさとのならしのおかの郭公 ことづてやりきいかにつげきや
坂上郎女に遣わした (大伴田村の御女・姉の大伴田村大嬢)
(古里の奈良しの丘のほととぎす、わたしが・伝言して遣ったのよ、何て告げたかなあ・かつ恋うと鳴いた?……振るさ門の寧楽思の山ばの、かつ恋う妹よ、彼に・言伝えたの? 何て告げたのよ)
言の戯れと言の心
「ふるさと…古郷…ふる里」「里…言の心は女…さ門…おんな」「ふるさとのならしのおか…古郷之奈良思乃岳(万葉集巻第八夏相聞の表記)…坂上…寧楽を思う山ば」「郭公…鳥の名…鳥の言の心は女…名は戯れる。且つこう、(別れた後)すぐに恋しい、もうまた恋しい、一方ならず恋しい」「こう…恋う…乞う…求める」
歌の清げな姿は、わたしが告げさせたの・かつ恋うと鳴いたでしょう、帰った後すぐに恋しくなったので。
心におかしきところは、ならしの山ばの且つ恋う妹よ、彼に・告げたか、何と告げたの。
「相聞」は、ほんとうの心根を聞かせ聞きあうこと。当然の生な心は言葉の綾模様に包んである。それが「相聞歌」である。清少納言は言う「包ま(慎ま)なくてもいいならば、千の歌であろうと、今からでも、詠んでみせますわ(枕草子九十五)」。
題不知 読人不知
四百五 あしひきのやまほととぎすさとなれて たそがれどきになのりすらしも
題しらず (よみ人しらず・男の歌として聞く)
(あしひきの山ほととぎす、出てきた・里に慣れて、たそがれ時に、かつ恋うと・名を告げているらしい……あの山ばの女、さ門慣れして、おとこの・たそがれ時に、且つ乞うと・告げているらしいなあ)
言の戯れと言の心
「あしひきの…枕詞」「やま…山…山ば」「ほととぎす…鳥の名…鳥の言の心は女」「さと…里…さ門…おんな」「たそがれどき…夕暮れ時…彼が訪れる夕方…ものの果て方」「な…名…ほととぎす…ほと伽す…郭公…且つ乞う」「らし…確信ある推定の意を表す」「も…感動・感嘆・詠嘆を表す」
歌の清げな姿は、夏も深まり、ほととぎすが馴れ馴れしく鳴いている。
心におかしきところは、あの・山ばの妻よ、あれが・涸れそうになると、且つ乞うと名のりするにちがいないなあ。
この歌の作者、拾遺集では、大中臣輔親(三代、伊勢神宮祭主・父は能宣・祖父は頼基)となっている。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。
和歌解釈の変遷について述べる(以下再掲載)
江戸時代の国学から始まる国文学の古典和歌解釈は、平安時代の歌論や言語観から遠く離れてしまった。
和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を逆手にとって、歌に複数の意味を持たせる高度な文芸のようである。視覚・聴覚に感じる景色や物などに、寄せて(又は付けて)、景色や物の様なども、官能的な気色も、人の深い心根も、同時に表現する。エロチシズムのある様式のようである。万葉集の人麻呂、赤人の歌は、明らかに、この様式で詠まれてある。
歌は世につれ変化する。古今集編纂前には「色好み歌」と化したという。「心におかしきところ」のエロス(性愛・生の本能)の妖艶なだけの歌に堕落していた。これを以て、乞食の旅人は生計の糧としたという。歌は門付け芸と化したのである。歌は「色好みの家に埋もれ木」となったという。そこから歌を救ったのは、紀貫之ら古今集撰者たちである。人麻呂、赤人の歌を希求し、古今集を編纂し、歌を詠んだ。平安時代を通じて、その古今和歌集が歌の本となった。三百年程経って新古今集が編纂された後、戦国時代を経て、再び歌は「歌の家に埋もれ木」となり、一子相伝の秘伝となったのである。
江戸時代の賢人達は、その「秘伝」を切り捨てた。伝授の切れ端からは何も得られないから当然であるが、同時に「貫之・公任の歌論や、清少納言や俊成の言語観」をも無視した。彼らの歌論と言語観は全く別の文脈にあったので曲解したためである。それを受け継いだ国文学の和歌の解釈方法は、序詞、掛詞、縁語などを修辞にして歌は成り立っていたとする。それが、今の世に蔓延ってしまった(高校生の用いる古語辞典などを垣間見れば明らかである)。平安時代の人が聞けば、奇妙な解釈に、笑いだすことだろう。
公任の云う「心におかしきところ」と「浮言綺語の戯れ似た戯れの内に顕れる」と俊成の云う事柄と共に、和歌のほんとうの意味は、埋もれ木のままなのである。和歌こそは、わが国特有の、まさに、文化遺産であるものを。