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帯とけの拾遺抄
平安時代の「拾遺抄」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読む。今の国文学的な和歌解釈の方法は棚上げしておく。やがて、平安時代にはあり得ない奇妙な方法であることに気付くだろう。
拾遺抄 巻第九 雑上 百二首
北白河の山荘に花のおもしろくさきて侍りける、見るとて人人まうで
きたりければ 右衛門督公任朝臣
三百八十八 はるきてぞ人もとひける山ざとは はなこそやどのあるじなりけれ
北白河の山荘に花(梅か桜)が面白く咲いた、見物するということで、人々が来たので、(藤原公任・四条大納言・歌学の第一人者)
(春が来てそれで、人も訪ねてきた山里は、花こそ、宿の主人だったのだなあ……心にも身にも・春が来て、男が訪ねて来た、山ばのさ門は、お花こそ、や門の主人公だったなあ)
言の戯れと言の心
「はる…(花咲く)季節の春…心の春…春情…身の春…張る」「人…人々…男」「山ざと…山里…山ばのさ門」「と…門…女…おんな」「はな…梅・桜…木の花は男花…おとこ花」「やど…宿…我が家…屋門・屋戸…言の心は女」「あるじ…主…主人…主人公…主役」「けれ…けり…気付き」
歌の清げな姿は、春の山荘を訪れる客人のお目当ては花。
心におかしきところは、やどの春の情の主役はおとこ花。
上総よりのぼりもうできてのころ、源頼光が宅にて人人さけのみし
はべりけるついでに花をみ侍りて 長能
三百八十九 あづまじののぢの雪まをわけてきて あはれ宮この花を見るかな
上総の国より参上して来たころ、源頼光(武勇伝の有る人)の邸宅にて、人々、酒を飲んだ、ついでに・酒の肴に、花を見ながら、(藤原長能・道綱の母の弟)
(東路の野路の雪間を分けて来て、あゝ感動、都の花を見ているのだなあ……君は・吾妻路の、ひら野の白ゆきの逝き間を、なおも・おし分け進み来て、あゝ感動、ついに・宮このおとこ花を、見ているのだなあ)
言の戯れと言の心
「あづまじ…東路…東国との通い路…吾妻路…吾が妻のみち」「じ…路…かよい路…おんな」「のぢ…野路…山ばのない通い路…粗野なかよい路」「雪間…雪の間…逝き間…おとこ白ゆきの間」「わけてきて…おし分け来て」「あはれ…あゝ…驚嘆を表す…立派だ…感動を表す」「宮こ…都…極まったところ…感の極み」「花…栄華…男花…おとこ花」「見…見物…覯…媾…まぐあい」「かな…であることよ…感動を表す」
歌の清げな姿は、頼光の長旅の苦労をねぎらった。
心におかしきところは、ゆき間を分け上り、宮こにてもお花見る、頼光の武樫おとこを褒めたたえた。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。
和歌解釈の変遷について述べる(再掲)
江戸時代の国学から始まる国文学的な古典和歌解釈は、平安時代の歌論や言語観から遠く離れてしまった。
和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を逆手にとって、歌に複数の意味を持たせる高度な文芸のようである。視覚・聴覚に感じる景色や物などに、寄せて(又は付けて)、景色や物の様なども、官能的な気色も、人の深い心根も、同時に表現する。エロチシズムのある様式のようである。万葉集の人麻呂、赤人の歌は、明らかに、この様式で詠まれてある。
歌は世につれ変化する。古今集編纂前には「色好み歌」と化したという。「心におかしきところ」のエロス(性愛・生の本能)の妖艶なだけの歌に堕落していた。これを以て、乞食の旅人は生計の糧としたという。歌は門付け芸と化したのである。歌は「色好みの家に埋もれ木」となったという。そこから歌を救ったのは、紀貫之ら古今集撰者たちである。人麻呂、赤人の歌を希求し、古今集を編纂し、歌を詠んだ。平安時代を通じて、その古今和歌集が歌の本となった。三百年程経って新古今集が編纂された後、戦国時代を経て、再び歌は「歌の家に埋もれ木」となり、一子相伝の秘伝となったのである。
江戸時代の賢人達は、その「秘伝」を切り捨てた。伝授の切れ端からは何も得られないから当然であるが、同時に「貫之・公任の歌論や、清少納言や俊成の言語観」をも無視した。彼らの歌論と言語観は全く別の文脈にあったので曲解したためである。それを受け継いだ国文学の和歌の解釈方法は、序詞、掛詞、縁語などを修辞にして歌は成り立っていたとする。それが、今の世に蔓延ってしまった(高校生の用いる古語辞典などを垣間見れば明らかである)。平安時代の人が聞けば、奇妙な解釈に、笑いだすことだろう。
公任の云う「心におかしきところ」と「浮言綺語の戯れ似た戯れの内に顕れる」と俊成の云う事柄と共に、和歌のほんとうの意味は、埋もれ木のままなのである。和歌こそは、わが国特有の、まさに、文化遺産であるものを。