帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (四百八)(四百九)(四百十)

2015-09-22 00:05:35 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

平安時代の「拾遺抄」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読む。藤原公任の歌論は『新撰髄脳』に「優れた歌の定義」として、「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしき所あるを、すぐれたりといふべし」と示されてある。

今の国文学の和歌の解釈方法は棚上げしておく。やがて、それは平安時代にはあり得ない奇妙な方法であることに気付くだろう。

 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首 


         躬恒忠岑にとひはべりける             伊衡朝臣

四百八  白露はうへよりおくをいかなれば はぎのした葉のまづもみづらん

躬恒と忠岑に問うた               (伊衡朝臣・藤原伊衡・父は藤原敏行)

(白露は上より降りるのに、どうして、萩の下葉が先ず黄葉するのだろうか……白つゆは、上より降りる、を・おとこ、どうして、端木の下端が、先に飽きの色になるのだろう)

 

言の戯れと言の心

「白露…白つゆ…おとこ白つゆ」「おく…置く…(露霜が)降りる」「を…のに…お…おとこ」「はぎ…萩…秋の草花…端木と聞き、飽きに白い花を咲かせるので、おとこ。すすき(薄・おばな・すす木)と同じ」「した葉…下の葉…下端…おとこ」[端…身の端…おとこ]「もみづ…紅葉・黄葉となる…飽き色と成る…色情が衰える」「らん…原因理由を推量する意を表す…(どうして秋の色に)成っているのだろう」

 

 

こたふ                      みつね

四百九  さおしかのしがらみふする萩なれば したはやうへに成りかへるらん

答える                     (凡河内躬恒・古今和歌集の撰者)

(さ牡鹿の、足・からみついて、伏せる萩なので、下葉、上に成り代わったのでしょうか……さ男肢下が、つまに・しがみついて伏す端木、飽きに・成れば、下のつまは、上にとなり代わっているのでしょうか)

 

言の戯れと言の心

「さおしか…さ牡鹿…さお肢下…おとこ」「しがらみ…し絡らみ…からみつく」「した…下…体位が下」「上…体位が上」

 

 

(こたふ)                    ただみね

四百十  秋はぎはまづさすはよりうつろふを 露のわくとは思はざらなん

(答える)                   (壬生忠岑・古今和歌集の撰者)

(秋萩は、先ずさし出る葉より衰え色変わるので、露が分別していると思はないでほしい……飽きの端木は、先に、さし入れる端より、色衰え果てるので、白つゆが分けへだてするとは思わないでほしい)

 

言の戯れと言の心

「秋…飽き…厭き」「はぎ…萩…秋の草花…(端木と聞き)おとこ。すすき(薄・おばな・すす木)と同じ」「草…言の心は女」「木…言の心は男」「まづ…先ず…先に」「さす…さし出る…さし込む」「は…葉…端…身の端」「うつろふ…移ろう…色衰える…色褪せる」「露…白つゆ…おとこ白つゆ」「わく…分ける…分別する…差別する…分けへだてする」「ざら…ず…打消しの意を表す」「なん…なむ…強く望む意を表す」


 

これらの歌の清げな姿は、歌による、たわいない「なぞなぞ」問答である。

それぞれ、おとなの「心におかしきところ」が有る。それを楽しんでいる。

千年隔てられた我々も、言の戯れと言の心を心得れば、「にやり」と微笑むことはできるはずである。

 

「あき・はぎ・は・つゆ」という言葉が、「秋・萩・葉・露」と言う漢字で示される意味にしか聞かない今の国文学の和歌解釈は、「歌の言葉は浮言綺語の戯れに似ている」という平安時代の解釈と、大きく相違している。その間違えた俎上で、和歌を分析しても得られるのは、和歌のほんとうの意味を包んでいる清げな衣の、ひだ、しわ、模様である。それを、掛詞、縁語、序詞などと名付けたのである。これらは、和歌の「心におかしきところ」を知るには全く無力である。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。