帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (三百九十六)(三百九十七)

2015-09-15 00:03:25 | 古典

         


 

                        帯とけの拾遺抄


 

平安時代の「拾遺抄」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読む。今の国文学的な和歌解釈の方法は棚上げしておく。やがて、平安時代にはあり得ない奇妙な方法であることに気付くだろう。


 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首

 

ある人のもとにつかはしける         御導師浄蔵

三百九十六 霞たつやまのあなたのさくら花 おもひやりてや春をくらさむ

或る女人の許に遣わした (御導師浄蔵・延喜御時の法師・七歳の時に自ら出家を求めたという)

(霞たつ山の彼方の桜花、思いを晴らしてや・咲き散らしてや、春の季節を暮らすのだろう……彼澄み断つ・彼す見立つ、山ばの貴女のおとこ花、思い遣りてや・気を遣ってや、春を・張るお、果てるつもり、如何でしょうか)

 

言の戯れと言の心

「霞…春かすみ…彼澄み…彼す見」「す…おんな」「見…覯…媾」「たつ…たちこめる…断つ…絶つ…立つ…起立する」「やま…山…山ば」「あなた…彼方…離れたところ…貴女」「の…所有、所属を表す」「さくら花…桜花…男花…おとこ花…おとこ端」「おもひやり…思い遣り…気を遣い…想像して…思い晴らし」「や…疑問・感動・詠嘆などを表す」「春…春情…張る」「くらさむ…暮らすのだろう…果てるだろう…果てるつもり」「む…推量を表す…意志を表す…勧誘を表す」

 

歌の清げな姿は、山の彼方の桜花の、咲き散り果てるさま。

心におかしきところは、山ばのあなたのお花、思い遣り深く、はるを果てるでしょう・如何でしょうか。

 

今の文脈での、花の言の心は、木の花も草花も「女」であるらしい。そのような文脈で、和歌の解釈をすれば、根本的に間違えることになるだろう。

 

 

延喜御時に南殿のさくらのちりつもりて侍りけるを見て

  公忠朝臣

三百九十七 とのもりのともの宮つこ心あらば この春ばかり朝きよめすな

延喜の御時に南殿の桜が散りつもっていたのを見て  (公忠朝臣・近江守源公忠、宮仕えのはじめは十四歳にて掃部助・六位蔵人。貫之らのすぐ次の世代の人。歌人として著名)

(殿守の仲間の宮人ども、風流な心・歌心、あるならば、この春だけは、朝の清掃するな……門まもりひとの、もろ共の宮こ、女を思い遣る・心があるならば、この張るばかりは、浅き・お花を、清めするなよ)

 

言の戯れと言の心

「とのもり…殿守…造営・修理・清掃などすち官人…との守るひと…門まもるひと…女」「と…門…おんな」「とも…友…仲間…伴侶…女…共」「宮つこ…宮の奴こ…下役人…宮こ(感の極み)」「心あらば…風流な・優雅な心があれば…女を思いやる心があれば」「この春…此の春…子の張る」「朝…浅」「きよめ…清め…清掃…乱れ淫らなものを清浄にする」

 

歌の清げな姿は、咲き散った桜花、塵芥のように清掃するな、おとこの魂のなみだよ。

心におかしきところは、門まもり人の宮こを、思い遣る心あるならば、張るあるかぎり、浅はかに見捨てるな。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。


 

和歌解釈の変遷について述べる(再掲)


 江戸時代の国学から始まる国文学的な古典和歌解釈は、平安時代の歌論や言語観から遠く離れてしまった。

和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を逆手にとって、歌に複数の意味を持たせる高度な文芸のようである。視覚・聴覚に感じる景色や物などに、寄せて(又は付けて)、景色や物の様なども、官能的な気色も、人の深い心根も、同時に表現する。エロチシズムのある様式のようである。万葉集の人麻呂、赤人の歌は、明らかに、この様式で詠まれてある。

歌は世につれ変化する。古今集編纂前には「色好み歌」と化したという。「心におかしきところ」のエロス(性愛・生の本能)の妖艶なだけの歌に堕落していた。これを以て、乞食の旅人は生計の糧としたという。歌は門付け芸と化したのである。歌は「色好みの家に埋もれ木」となったという。そこから歌を救ったのは、紀貫之ら古今集撰者たちである。人麻呂、赤人の歌を希求し、古今集を編纂し、歌を詠んだ。平安時代を通じて、その古今和歌集が歌の本となった。三百年程経って新古今集が編纂された後、戦国時代を経て、再び歌は「歌の家に埋もれ木」となり、一子相伝の秘伝となったのである。

江戸時代の賢人達は、その「秘伝」を切り捨てた。伝授の切れ端からは何も得られないから当然であるが、同時に「貫之・公任の歌論や、清少納言や俊成の言語観」をも無視した。彼らの歌論と言語観は全く別の文脈にあったので曲解したためである。それを受け継いだ国文学の和歌の解釈方法は、序詞、掛詞、縁語などを修辞にして歌は成り立っていたとする。それが、今の世に蔓延ってしまった(高校生の用いる古語辞典などを垣間見れば明らかである)。平安時代の人が聞けば、奇妙な解釈に、笑いだすことだろう。

公任の云う「心におかしきところ」と「浮言綺語の戯れ似た戯れの内に顕れる」と俊成の云う事柄と共に、和歌のほんとうの意味は、埋もれ木のままなのである。和歌こそは、わが国特有の、まさに、文化遺産であるものを。