帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (三百八十二)(三百八十三)

2015-09-07 00:07:56 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

平安時代の「拾遺抄」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読む。


 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首

 

人にものいひ侍るときき侍りてとひはべらざりけるをのこの許に

つかはしける                   中宮内侍少将

三百八十二 かすがののをぎのやけはらあさるとも 見えぬなきなおほすなるかな

他の人と言葉を交わしていると聞いて、訪れなくなった男の許に言って遣った (中宮内侍少将・中宮識の女官・馬内侍)

(春日野の荻の焼け原、探し求めても、見えない・有りもしない、菜を・名を・評判を、お思いになられ、わたしに責めを・負わすのかなあ……かすかのひら野の、おとこの、焼け腹、まさぐっても、見えない、なき汝、そんなものを、わたしに負わせるのかあ)

 

言の戯れと言の心

「かすがの…春日野…野焼きする野…微かなひら野…山場では無いところ」「かすか…幽か…ものの存在がわずかに感じられるありさま」「をぎ…荻…草ながらすすきと同じく言の心は男…おとこ」「やけはら…焼け原…焼け野原…やけ腹…やきもきする腹の内…嫉妬する腹の内」「あさる…漁る…(動物が餌を)あさる…探し求める…手で弄る」「見えぬ…見当たらない…訪れない…お見えにならない…見無し」「見…覯…媾…まぐあい」「なきな…無き名…事実では無い評判…あらぬ噂…無き汝…亡きおとこ…泣きおとこ」「な…汝…親しいもの」「おほす…おっしゃる…申される…おぼす…思す…お思いになられる…負ほす…(責任や罪や物を)負わせる」「かな…感嘆・詠嘆の意を表す」

 

歌の清げな姿は、あらぬ噂を信じなさるのかという・抗弁。

心におかしきところは、やきもち焼く腹、弄っても汝を見られない、そんな物を負わせるのか。

 

噂の真偽など別にして、二つ目の喩えの意味が伝われば、男心を「あはれ」と思わせること必定。そり返って訪れて来るだろうか。

 

 

女の許になずなの花につけてつかはしける         藤原長能

三百八十三 雪をうすみかきねにつめるからなずな なづさはまくのほしききみかな

女の許になずなの花に付けて遣わした (藤原長能・道綱の母の弟・花山院側近・能因法師の歌の師)

(雪が薄いので、我が家の・垣根で摘んだ唐なずな・を贈る、慣れ親しくなりたい貴女だことよ……逝きが薄情なので、掻き根で詰めよる、空撫づ汝、浮きことに浸って欲しい貴身だなあ)

 

言の戯れと言の心

「雪…行き…逝き…白ゆき」「うすみ…薄いので…薄情なため」「かきね…垣根…掻き根…おとこ」「つめる…摘める…摘んでいる…詰める…詰め寄る…押し迫る」「からなずな…唐なずな…草の名…言の心は女…空撫づ菜…むなしい撫づおんな」「なづさふ…慣れ親しむ…浮き漂う…浮きことに浸る」「まくのほしき…まくほしき…であって欲しい…でありたい」「きみ…貴女…貴身…あなたの身」「かな…だなあ…であることよ」

 

歌の清げな姿は、交際の申し込み。

心におかしきところは、逝きざま薄情な、空撫づの貴身に、おとこの願望を言い遣った。

 

江戸時代の国学者たちの百年ほど前、もしかしたら、松尾芭蕉は、上のような言の戯れを心得ていたかもしれない。「よく見ればなずな花さくかきねかな」や「ふるいけやかはづとびこむ水のおと」など、その多くの俳句の言葉にも、同じ戯れの意味を感じる。「見…覯…媾」「花…おとこ花」「垣根…搔き根」。「いけ…池…逝け」「水…女」「おと…声」。これは今のところ思いつきにすぎない。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。


 

和歌解釈の変遷について述べる(再掲)


  江戸時代の国学から始まる国文学的な古典和歌解釈は、平安時代の歌論や言語観から遠く離れてしまった。

和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を逆手にとって、歌に複数の意味を持たせる高度な文芸のようである。視覚・聴覚に感じる景色や物などに、寄せて(又は付けて)、景色や物の様なども、官能的な気色も、人の深い心根も、同時に表現する。エロチシズムのある様式のようである。万葉集の人麻呂、赤人の歌は、明らかに、この様式で詠まれてある。

歌は世につれ変化する。古今集編纂前には「色好み歌」と化したという。「心におかしきところ」のエロス(性愛・生の本能)の妖艶なだけの歌に堕落していた。これを以て、乞食の旅人は生計の糧としたという。歌は門付け芸と化したのである。歌は「色好みの家に埋もれ木」となったという。そこから歌を救ったのは、紀貫之ら古今集撰者たちである。人麻呂、赤人の歌を希求し、古今集を編纂し、歌を詠んだ。平安時代を通じて、その古今和歌集が歌の本となった。三百年程経って新古今集が編纂された後、戦国時代を経て、再び歌は「歌の家に埋もれ木」となり、一子相伝の秘伝となったのである。

江戸時代の賢人達は、その「秘伝」を切り捨てた。伝授の切れ端からは何も得られないから当然であるが、同時に「貫之・公任の歌論や、清少納言や俊成の言語観」をも無視した。彼らの歌論と言語観は全く別の文脈にあったので曲解したためである。それを受け継いだ国文学の和歌の解釈方法は、序詞、掛詞、縁語などを修辞にして歌は成り立っていたとする。それが、今の世に蔓延ってしまった(高校生の用いる古語辞典などを垣間見れば明らかである)。平安時代の人が聞けば、奇妙な解釈に、笑いだすことだろう。

公任の云う「心におかしきところ」と「浮言綺語の戯れ似た戯れの内に顕れる」と俊成の云う事柄と共に、和歌のほんとうの意味は、埋もれ木のままなのである。和歌こそは、わが国特有の、まさに、文化遺産であるものを。