帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (四百六)(四百七)

2015-09-21 00:10:08 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

平安時代の「拾遺抄」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読む。今の国文学の和歌解釈方法は棚上げしておく。やがて、平安時代にはあり得ない奇妙な方法であることに気付くだろう。


 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首

 

         (題不知)                      (読人不知)

四百六  いたづらにおいぬべらなりおほあらきの もりのしたなる草葉ならねど

         (題しらず)  (よみ人しらず・男の歌として聞く・拾遺集では躬恒)

(むだにむなしく老いてしまいそうだ、大荒木の森の下の草葉ではないけれど・駒にも喰われず……役にも立たず感極まってしまいそうだ、大いに荒れたおとこの盛りの、下のおんな、頂天に・成れないのに)

 

言の戯れと言の心

「いたづらに…むなしく…はかなく…役立たず」「おいぬ…老いてしう…極まってしまう…感極まり果ててしまう」「ぬ…完了した意を表す」「べらなり…しそうだ…のようすだ」「おほあらきのもり…大荒木の森…森の名…名は戯れる。大いに荒れた男木の盛り、大いに荒れたおとこの盛り」「木…言の心は男」「したなる草葉…駒もすさめぬ下草…馬も賞味しない草…(こまも)食わない女」「草…言の心は女」「葉…端…はしくれ…身の端」「ならねど…ではないけれど…成らねど…京(感の極み)に成らないのに」

 

拾遺抄の歌の第五句は「草にはあらねど」となっている。字余りなので、「草葉ならねど」と聞いたが、第三句「おほあらきの」も字余りなのに、歳老いて数もわからぬ、しどろもどろな感じを出すためかも。

 

歌の清げな姿は、男の老いの嘆き。

心におかしきところは、はかなくもむなしい、おとこのさがの嘆き。

 

古今和歌集巻第十七、雑上の「下草」の歌を聞きましょう。題しらず、よみ人しらず。

おおあらきのもりのしたくさおいぬれば こまもすさめずかる人もなし

(大荒木の森の下草、老いてしまったので、駒も賞味せず、刈る人も居ない……おおいに荒れたおとこの盛りの、下の女、感極まったので、わが・股間も、賞味しない、かりして、めとる男もいないし)

「こま…駒…股間…おとこ・おんな」「ま…間…言の心は女」「すさめず…賞味しない…喜んで喰わない…嫌う」「かる…刈る…狩る…猟する…あさる…めとる」

 歌は、女の老いの嘆きと思いきや。それだけではない「心におかしきところ」がある、おんなの感の極みの果てのありさま。

 

 

(題不知)                    (読人不知)

四百七  あひ見ずてひとひも君にならはねば たなばたよりも我ぞまされる

        (題しらず)     (よみ人しらず・拾遺集では貫之の躬恒への返歌・ここでは戯れて女の立場で詠んだ歌として聞く)

(逢えなくて、一日でさえも君に親しく馴染めないと、七夕星よりも、我ぞ、待ち遠しさ・増さるよ……合えなくて、一日でも君に親しく馴染めないと、織姫星より、わたしが、合いたさ増さる)

 

言の戯れと言の心

「あひ…相…逢い…合い」「見ず…対面せず…お目にかからず…まぐあわず」「見…覯…媾」「ならはね…ならはぬ…親しまない…馴染まない…むつましくしない」「たなばた…七夕星…一年に一度しか逢えない両星…七夕姫」「まさる…増さる…勝る…逢いたさ増さる…合いたさまさる」

 

歌の清げな姿は、歌についての思いを同じくする同志の友情。

心におかしきところは、また一人、織姫を恋におとしたな、色男め。

 

『拾遺集』では、七夕後朝(八日の朝)躬恒より寄こした歌の返事に、貫之が詠んだ歌。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。


 

和歌解釈の変遷について述べる(以下再掲載)

 

江戸時代の国学から始まる国文学の古典和歌解釈は、平安時代の歌論や言語観から遠く離れてしまった。そのことにさえ気付かない程。

和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を逆手にとって、歌に複数の意味を持たせる高度な文芸のようである。視覚・聴覚に感じる景色や物などに、寄せて(又は付けて)、景色や物の様なども、官能的な気色も、人の深い心根も、同時に表現する。エロチシズムのある様式のようである。万葉集の人麻呂、赤人の歌は、明らかに、この様式で詠まれてある。

歌は世につれ変化する。古今集編纂前には「色好み歌」と化したという。「心におかしきところ」のエロス(性愛・生の本能)の妖艶なだけの歌に堕落していた。これを以て、乞食の旅人は生計の糧としたという。歌は門付け芸と化したのである。歌は「色好みの家に埋もれ木」となったという。そこから歌を救ったのは、紀貫之ら古今集撰者たちである。人麻呂、赤人の歌を希求し、古今集を編纂し、歌を詠んだ。平安時代を通じて、その古今和歌集が歌の本となった。三百年程経って新古今集が編纂された後、戦国時代を経て、再び歌は「歌の家に埋もれ木」となり、一子相伝の秘伝となったのである。

江戸時代の賢人達は、その「秘伝」を切り捨てた。伝授の切れ端からは何も得られないから当然であるが、同時に「貫之・公任の歌論や、清少納言や俊成の言語観」をも無視した。彼らの歌論と言語観は全く別の文脈にあったので曲解したためである。それを受け継いだ国文学の和歌の解釈方法は、序詞、掛詞、縁語などを修辞にして歌は成り立っていたとする。それが、今の世に蔓延ってしまった(高校生の用いる古語辞典などを垣間見れば明らかである)。平安時代の人が聞けば、奇妙な解釈に、笑いだすことだろう。

公任の云う「心におかしきところ」と「浮言綺語の戯れ似た戯れの内に顕れる」と俊成の云う事柄と共に、和歌のほんとうの意味は、埋もれ木のままなのである。和歌こそは、わが国特有の、まさに、文化遺産であるものを。