■■■■■
帯とけの拾遺抄
藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読んでいる。
公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という、優れた歌の定義に表れている。勅撰集に採られるような歌には、必ずこの三つの意味が有るだろう。
今の国文学の和歌解釈方法は棚上げしておくが、やがて、平安時代にはあり得ない奇妙な表層のみの解釈であることに気付くだろう。すでに、江戸時代に解釈方法を根本的に間違えていたのである。
拾遺抄 巻第九 雑上 百二首
権中納言義懐の入道してのち、むすめを斎院にやしなひ給ひけるが
もとより東の院に侍りけるあねの許に十月ばかりに侍りける
四百十九 山がつのかきほわたりをいかにぞと しもかれがれにとふ人もなし
父の藤原義懐が入道して後、大斎院選子の斎院に生活を託された妹より、花山院の東院に暮らす姉の許に、初冬に遣った歌
(山賎のような・わたしの居る、高い垣根辺りを、どうしているかと、霜枯れ枯れで・士も離れ離れて、訪う人もいないのよ・お姉さま……山の賤しい掻きお、渡りを、如何かと、下渇れ渇れで問う男もいないのよ・尼情態よ)
言の戯れと言の心
「山がつ…賤しい…自嘲…粗野なおとこ」「かきほ…高い垣根…掻きほ…掻きお…さお…おとこ」「わたり…辺り…渡り…またがり・乗り」「いかにと…如何に(暮らしているか)と…如何かなと」「しもかれ…霜枯れ…士も離れ…下渇れ…もの渇え…下涸れ…もの潤いなし」「に…時に…そのために」「とふ…訪う…問う」
歌の清げな姿は、父に出家された娘の悲哀を同じ状態の姉に訴えた。
心におかしきところは、女としての、心情と、しもの渇えを姉にうちあけた。
唯の三十一文字の中に、女の心の内、身のありさまも生々しく伝わるようにように表現されてある。「言の心」を心得た人は、第三者でも、たとえ一千年時を隔てた人でも、その心に、おかしみさえ伴って伝わるはずである。これが和歌の表現様式(貫之の言う・歌のさま)である。
内裏の御屏風に 元輔
四百二十 月影のたなかみがはにきよければ あじろにひをのよるも見えけり
内裏の御屏風に (清原元輔・後撰和歌集撰者・清少納言の父)
(月の光が田上川に清く澄んで照るので、網代に氷魚の、寄りくるのも・夜でも、見えることよ……つき人壮士の陰が、多な上川に、来好いので、あの寄り処に、よわよわしい小うおも、夜、見ていることよ)
言の戯れと言の心
「月影…「たなかみがは…田なかみ川…川の名…名は戯れる。多な上かは・多情な女のおんな」「上…女の敬称」「川…言の心は女…おんな」「きよい…清い…澄んでいる…つきかげと川のほめ言葉」「あじろ…網代…足代」「代…代わり…寄り処」「ひを…氷魚…弱々しい小魚…よわよわしいおとこ…これはおとこの卑下」「魚…いを…うお…おとこ」「見…目に見る…覯…媾…まぐあい」
歌の清げな姿は、初冬の川に網代のある風景。
心におかしきところは、内裏の女の局の寝床の御屏風の絵に書き付けた歌。
さすが、歌のプロフェッショナル。「をかし」好きの清少納言の父である。依頼者の女人の喜び笑うさまが見える。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。
和歌の表現様式について述べる(以下は再掲載)
紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って、平安時代の和歌の表現様式を考察すると次のように言える。「常に複数の意味を孕むやっかいな言葉を逆手にとって、歌に複数の意味を持たせる高度な文芸である。視覚・聴覚に感じる景色や物などに、寄せて(又は付けて)、景色や物の様子なども、官能的な気色も、人の深い心根も、同時に表現する。エロチシズムのある様式である」。