帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (三百八十六)(三百八十七)

2015-09-09 00:03:07 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

平安時代の「拾遺抄」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読む。今の国文学的な和歌解釈の方法は棚上げしておく。やがて、平安時代にはあり得ない奇妙な方法であることが明らかになるだろう。


 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首

 

内裏に御あぞびありける時              参議藤原伊衛

三百八十六 かざしてはしらがにまがふむめの花 いまはいづれをぬかんとすらむ

内裏でお遊びがあった時、 (参議藤原伊衛・古今集撰者たちとほぼ同じ世代の人・父は藤原敏行朝臣)

(髪に挿しては白髪と紛れる梅の花、今は、どちらを抜こうか、どうしよう……かみに、さしては、老人の白髪に紛らわしい白い花、井間は・今は、どちらを抜こうとするだろうか)

 

言の戯れと言の心

「かざし…挿頭…髪挿…かみ差し」「かみ…髪…神…女」「むめの花…梅花…木の花…男花…白いおとこ花」「いまは…今は…臨終…死に際…逝き際…井間…おんな」「ぬかん…抜こう…抜くのだろう…取り去るのだろう」「らむ…するつもりだろう(か)…のだろう(か)」「む…意志を表す…推量する意を表す」

 

歌の清げな姿は、初老の男の、他人にはどうでもいいとまどい。

心におかしきところは、いく今はの際に、井まは、どちらを邪魔と抜き去るだろうか。

 

酒有り管弦と詩歌のお遊びがあった時の歌。ただの「色好み歌」に、あえて片足を踏み入れている。

 

 

春、花山に亭子の法皇御幸ありてとくかへらせたまひければ

僧正遍昭

三百八十七 まててはばいともかしこしはなの山 しばしとなかん鳥のねもがな

春、花山寺に亭子の法皇御幸ありて、早々にお帰りになられたので、(僧正遍昭・亭子院の御祖父の仁明帝にお仕えして崩御とともに法師に成り僧正となられた人・古今集第一の歌人)

(待てと言えば、とても畏れ多い、花の山、しばしお待ちくださいと鳴く、鳥の声があればなあ……お待ちになって、と言えばとても畏れ多い、お花の山ばに、鸚鵡か・浮くひす・且つ恋うと、泣く女の声がなあ、欲しい)

 

言の戯れと言の心

「まて…(お帰りをしばし)待て…(見捨て去るのはしばし)待ってよ」「はなの山…花の山…すばらしい気色の山ば」「なかん…鳴く…泣く」「鳥…言の心は女」「もがな…願望の意を表す…あればいいのになあ」

 

歌の清げな姿は、祖父の御事などお話は尽きないのに、お帰りを、鳴いて留める鳥が居ればなあ。

心におかしきところは、花の山ばを見捨てて去るお方を留めて、浮くひす、且つ恋う、鳴いてくれ。

 

両歌の「心におかしきところ」を享受するには、先ず「歌の様」を知り、「木の花」と「鳥」の言の心を、心得ることである。

 

鳥は、あふむひとのいふらん事をまねぶらんよ(鳥は鸚鵡、ひとの言う事を真似するらしいよ)と枕草子(三八)にある。鶯でも郭公でもかまわない。鳥に言の心は女。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。

 


 和歌解釈の変遷について述べる
(再掲)


 江戸時代の国学から始まる国文学的な古典和歌解釈は、平安時代の歌論や言語観から遠く離れてしまった。

和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を逆手にとって、歌に複数の意味を持たせる高度な文芸のようである。視覚・聴覚に感じる景色や物などに、寄せて(又は付けて)、景色や物の様なども、官能的な気色も、人の深い心根も、同時に表現する。エロチシズムのある様式のようである。万葉集の人麻呂、赤人の歌は、明らかに、この様式で詠まれてある。

歌は世につれ変化する。古今集編纂前には「色好み歌」と化したという。「心におかしきところ」のエロス(性愛・生の本能)の妖艶なだけの歌に堕落していた。これを以て、乞食の旅人は生計の糧としたという。歌は門付け芸と化したのである。歌は「色好みの家に埋もれ木」となったという。そこから歌を救ったのは、紀貫之ら古今集撰者たちである。人麻呂、赤人の歌を希求し、古今集を編纂し、歌を詠んだ。平安時代を通じて、その古今和歌集が歌の本となった。三百年程経って新古今集が編纂された後、戦国時代を経て、再び歌は「歌の家に埋もれ木」となり、一子相伝の秘伝となったのである。

江戸時代の賢人達は、その「秘伝」を切り捨てた。伝授の切れ端からは何も得られないから当然であるが、同時に「貫之・公任の歌論や、清少納言や俊成の言語観」をも無視した。彼らの歌論と言語観は全く別の文脈にあったので曲解したためである。それを受け継いだ国文学の和歌の解釈方法は、序詞、掛詞、縁語などを修辞にして歌は成り立っていたとする。それが、今の世に蔓延ってしまった(高校生の用いる古語辞典などを垣間見れば明らかである)。平安時代の人が聞けば、奇妙な解釈に、笑いだすことだろう。

公任の云う「心におかしきところ」と「浮言綺語の戯れ似た戯れの内に顕れる」と俊成の云う事柄と共に、和歌のほんとうの意味は、埋もれ木のままなのである。和歌こそは、わが国特有の、まさに、文化遺産であるものを。