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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
古典和歌は、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従って紐解き直せば、公任のいう歌の「心におかしきところ」即ち俊成がいう歌の深い旨の「煩悩」が顕れる。いわば、エロス(生の本能・性愛)である。
普通の言葉では言い出し難いものを、「清げな姿」に付けて表現する、高度な歌の様(表現様式)をもっていたのである。
古今和歌集 巻第三 夏歌 (157)
(寛平御時后宮歌合の歌) 壬生忠岑
暮るゝかと見ればあけぬる夏の夜を あかずとやなく山郭公
(壬生忠岑は古今和歌集の撰者の一人である)
(暮れるかと見れば、明けてしまう夏の夜を、飽き満ち足りないとかな、鳴く山ほととぎす……繰り返し来るかと見れば、限度あけてしまう、なつの夜を、飽き足りないとでも泣くのか、山ばの且つ乞う女)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「くるる…(日が)暮れる…繰るる・来るる…繰り返し来る」「る…受身をあらわす」「見…思う事…覯…媾…まぐあい」「あけぬる…(夜が)明けてしまう…(ものの)期限・限度がくる」「ぬる…完了を表す」「夏の夜…暑苦しい夜…短夜…懐の夜…慣れ親しむ夜…なづむ夜…泥む夜…難渋する夜」「あかず…明かず…飽かず」「とや…とかな…疑いの意を表す」「鳴く…泣く」「山…(感情などの)山ば」「郭公…既に嫌というほど述べてきたように、鳥の言の心は女…泣き声や名は戯れる。且つ乞う」。
夏の早い夜明けに鳴く郭公鳥、短夜が・もの足りないと鳴くだろうか。――歌の清げな姿。
繰り返し山ば来るかと見ていれば、早くも白けて、且つ乞うと泣く女。――心におかしところ。
「寛平御時后宮歌合」で、この歌に合わされた左歌は、よみ人知らず(女の詠んだ歌として聞く)。忠岑の歌と、ほぼ同じ情況を別の視点で詠まれてある。
おしなべてさつきの野辺を見渡せば 水も草葉も深緑なる
(一様に、五月の野辺を見渡せば、水も草葉も深い緑だことよ……お肢、並みで・なびきて、さ尽きの、野辺を・山ばでないところを、見わたせば、をみなは、その端も・おんなも、色づいていない・飽きはほど遠いわよ)
「おしなべて…一様に…お肢靡きて…おし並で…おとこ伏して」「さつき…五月…さ尽き」「さ…接頭語」「野辺…山ばでは無くなったところ…平情なところ」「見…目で見ること…覯…媾…まぐあい」「水…言の心は女」「草…言の心は女」「葉…端…身の端…おんな」「深緑…紅葉していない…色褪せていない…飽き満ちた色ではない」「なる…なり…である(物よ・ことよ)」
江戸の国学以来の国文学的解釈は、「清げな姿」を歌の本意として、文字通りの季節感を詠んだ歌のように解く。「色好み歌」「艶流泉湧」「絶艶之草」「至有好色之家」「心におかしきところ」など、散見する平安時代の和歌に関する見解を示した言葉は全て無視されている。歌にエロスが顕れることなどとは、夢にも思っていない。
古典和歌はうわの空読みされて、色気のない文脈に捨て置かれて5百年は経つ。モノクロームと化した解釈は常識化し、今や全ての古語辞典に根づき蔓延っている。常識の破壊的改革が必要だけれども、それは非常に困難である。「せめて、心ある人よ、ほんとうの和歌の様を垣間見て、モノクロの常識から脱却して見ては如何だろうか、和歌の領野が深いところまで拓けるだろう」。これが当ブログのコンセプトである。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)