カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」を映画化したNever Let Me Goを観た。
原作が文学作品の場合、原作の方がいいとか、映画の方がいいとか比較されがちだ。
たとえば、タルコフスキーの「ソラリス」は、わたしは、断然、映画の方がいいと思っている。
しかし、今回の場合、小説は小説として読み、映画は映画として観た方がいいと思う。
カズオ・イシグロ自身がエグゼクティブ・プロデューサーとして映画製作に参加しているし、マーク・ロマネク監督はカズオ・イシグロの愛読者で、作者を敬愛しているので、ほぼ原作に沿った内容になっている。
ただ、小説の題名にもなっていて、ストーリーの重要な伏線となっているNever let Me Goのカセットテープの扱いが、映画では全然違う。
このテープを巡る話は、主人公の3人の若者の関係を微妙に変化させていく重要なディテールになっていて、小説の中でもわたしの好きな部分なので、少し肩透かしを食った感じがした。
けれども、語り手で主人公のキャシーを演じたキャリー・マリガンがあまりにもすばらしく、彼女の静かな存在感がこの映画を成り立たせていると言っても過言ではないだろう。
キャシーの幼なじみ、ルース役のキーラ・ナイトレイ、トミー役のアンドリュー・ガーフィールドともども、臓器提供のために育てられたクローンというあり得ない状況で生きて行かなければいけない若者を、本当によく演じていた。
小説では読者の想像に委ねられる風景や登場人物を、映画では実際の風景として映し出し、人間として肉付けし、演じなければいけない。
原作はリアリズム小説ではない。カズオ・イシグロの作品の特徴である、語り手の記憶が、いくつもの重層的な物語を物語るという、複雑な構造になっている。
映画化するにあたって、難しい点がたくさんあったと思う。そういう意味で、この映画は、監督も、カメラも、演技者も、よくやったなあと思う。
ただし、わたしは原作を読んでいるので納得できたが、原作を読んでいない観客は、この映画をどのように観るだろうか。
映画の最後に、ルースもトミーも、臓器提供を2回、3回と繰り返して終了して(死んで)しまい、自分も提供の通知を受けたキャシーが、「提供者の私たちと提供を受ける人間の間に違いがあるだろうか。どちらも、いつかは終了が来る」と言う場面がある。
作者も、「臓器提供のクローンという状況は特別なものではない。すべての人間にあてはまる物語なのだ」と語っている。
そのことを、キャシーのセリフで語らせたと思うのだが、このセリフが原作にあったかどうか忘れてしまったけれども、映画として、ちょっと直接的表現すぎるなあ。キャシーやルースやトミーの生きた軌跡が十分に、作者の意図を伝えていると思うのだが。
しかし、静寂さに満ちた風景の中に、3人の若者の人生を美しく描いた、いい映画である。