友人と発行している同人紙からの転載です。
前号で、大伴旅人の作品の特徴を「虚構の文学」だと評した白川静さんの説を紹介した。「梅花の歌三十二首」」についてもそのことは言える。
◇もし翰苑にあらずは、何をもちてか情を攄べむ
「梅花の歌」の漢文の序が東晋の書家・王義之の「蘭亭序」を模したものであること、「令和」の出典とされる「時に、初春の令月にして、気淑(よ)く風和らぐ」の部分が、後漢の張衡の「帰田賦」から採ったものであり、「帰田賦」は、張衡が時の政治に失望して故郷に帰る詩であることは前号で書いた。
そのあとに、宴席の周りの風景が中国の古典を引用しながら流麗な文章で綴られている。
そして、「梅花の歌」の宴の様子を次のように書く。紙数の関係で、一部を除いて『萬葉集釋注』(伊藤博著)の訳文を引用する。
「一座の者みな恍惚として言を忘れ、雲霞の彼方に向かって胸襟を開く。心は淡々としてただ自在、思いは快然としてただ満ち足りている。もし翰苑にあらずは、何をもちてか情(こころ)を攄(の)べむ(ああ文筆によるのでなければ、どうしてこの心を述べ尽くすことができよう)」
この序文の後に、宴に列席した面々が詠んだ三十二首の歌(815~846)が並び、さらに「追和歌」六首が加えられている。この六首は旅人の作である。
憶良たち筑紫歌壇を形成した官人が参集した梅花の宴は、旅人邸での実際の出来事だろう。しかし、前号で紹介した「梧桐日本琴」や「松浦川に遊ぶ」にも見られるように、「蘭亭序」になぞらえた序文と六首の追和歌を加えて、旅人は虚構の物語を創作しているのである。
長屋王が死に追い込まれたのは神亀6年2月(8月に天平元年と改元)。「梧桐日本琴」の書状が藤原房前に贈られたのは天平元年10月、梅花の宴が開かれたのが天平2年1月、「松浦川に遊ぶ」は同じく天平2年である。
これらの作品が作られた時期、藤原氏の権力は遮るものの無い絶大なものとなっていった。
古代からの名門氏族である大伴氏。その長たる旅人は、「讃酒歌」(巻三)を詠むことで悲憤、慷慨し、「虚構の文学」の世界に遊ぶことで、ままならぬこの世に身を置くことができたのであろう。
「もし翰苑にあらずは……」という一文は、梅花の宴についての記述にとどまらず、文学の世界でしか自分の本当の気持ちは表現できないという、旅人の文学論にも思えてくる。
天平2年(730)12月、旅人は帰京する。帰京から半年後の天平3年7月、旅人病没。67歳であった。
巻五に収められた旅人の作品は、「松浦川に遊ぶ」が最後である。
◇貧窮問答歌と沈痾自哀文
山上憶良は、旅人が都へ旅立つ天平2年12月に開かれた餞別の宴で、はなむけの倭歌四首と、「敢へて私の懐(おもひ)を布(の)ぶる歌」三首を贈っている(876~882)。
これ以降、巻五は憶良の作品ばかりとなる。主な作品を挙げる。
「熊凝のためにその志を述ぶる歌に敬和する六首并せて序」(886~891)は、大伴君熊凝(くまごり)という人が行路で死んだときのことを詠んだ麻田陽春の「大伴君熊凝が歌二首」に和したもの。漢文の序と、熊凝に成り代わって詠んだ長歌と短歌である。
次に有名な「貧窮問答の歌一首并せて短歌」(892~893)がある。
892の長歌は、貧者が、さらに貧しい極貧者に、「どのようにしてこの世をしのいでいるのか」と問いかけ、極貧者が、「かまどに火がなく、飯を炊くのも忘れているのに、笞をかざす里長の声は寝屋にまできてまくしたてる、生きることはこんなにも辛いものなのか」と嘆く内容である。
893 世の中を 厭(う)しと恥(やさ)しと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば
(この世が厭なところ、身も細るようなつらいところであっても、人間は鳥ではないので、世を捨てて飛び立つこともできない)
この短歌の後に「山上憶良 頓首謹上」とあり、筑前守という官名がないので、天平3年暮れ、任を解かれ帰京した後の歌であるらしい。
巻五の最後には、憶良の絶筆と言われる三部作が並ぶ。
「沈痾(ちんあ)自哀文」は、「重い病に自ら哀しむ文」。岩波文庫の『新訓万葉集』(佐佐木信綱編)で四ページを超えるほどの長編の漢文である。
何の報いか、重病に襲われたわが身の苦しみをつぶさに記し、「人は誰しも限りなき命を願うが、死という宿命からは逃れられない。長生きできないのなら、ならば、せめて病の苦しみから逃れたいものだ」と生への執着を切々と語る。
三部作の残る二作、「俗道の化合即離(けごうそくり)、去りやすく留(とど)みかたきことを悲嘆(かな)しぶる詩一首并せて序」も、「老身に病を重ね、経年辛苦し、児等を思ふに及(いた)る歌七首」も、世の無常を嘆き、老いと病、我が子という煩悩に苛まれて、悟るに悟れず、死ぬに死ねない自らの姿を描いている。
これら三部作は、天平5年(733)6月3日に作られている。同じ年、旅人の死から2年後に憶良は没する。74歳であった。
◇後期万葉の両輪、旅人と憶良
大宝元年(701)、憶良は40歳を過ぎて遣唐使に随行する遣唐少録に抜擢されるが、それまでの経歴は知られていない。憶良が渡来人であるということは、様々な研究によってほぼ間違いないと思われる。
白川静さんの『後期万葉集』によると、憶良が筑前守として赴任する以前の作品はわずか六首。それが、旅人の大宰帥着任以後、たちまち多作となった。
旅人も大宰府に赴く前は寡作の人だったが、憶良の作歌の時期と重なる数年間に六十九首の短歌を作っている。
空想の世界に遊ぶ旅人と、現実を直視し生きる苦しみを歌った憶良とは、文学的に対立する関係にあったと見る研究者は少なくない。
しかし、白川静さんは「二人が相対立していたのではなく、二人が、人麻呂的な古に対する、天平的な新として、飛鳥的古を否定したのであった。そのとき彼らの理念を支えたものは、憶良においては百済的な仏教の信仰であり、旅人においては中国の古典の世界であった」と論じている。
旅人の文学の特徴を「虚構の文学」とする一方、憶良の作品については「常に自分を超えて他に代位するというところがあって、自己表現に徹しきれない部分が残されているように思う。『貧窮問答歌』にしても、彼の実生活そのままではありえないが、彼の歌には自己を一般化し歌う、また他者に自己を投影して歌うというような姿勢がある。それはいわば代作者的な姿勢である」と評する。
そして、「かれ(憶良)の歌業が、旅人という有力な歌友をえて、世に伝えられることは、疑う余地のないことであった。(中略)旅人と憶良とが、後期万葉の歴史を動かす両輪であったことは、万人の認めるところである」と述べている。(『後期万葉論』第四章 仮合即離の境涯)
◇『詩経』と『萬葉集』
白川静さんは『初期万葉論』のなかで、中国の『詩経』と、日本の『萬葉集』を取り上げて、比較文学的研究を試みたと述べている。
『詩経』は中国最古の詞華集。紀元前九世紀をその中心年代とし、『萬葉集』は八世紀後半を中心としている。
千数百年を隔てているが、各地域の、異なる立場における生活者の歌謡を含んでいる点、古代詞華集の成立する歴史的条件において共通するものがあるという。
「(それまでの)共同体の秩序が不安定なものとなり、生への不安が高まるにつれて、人びとは自らの歌を欲するようになる」というのである。
このような視点をもって『萬葉集』巻五をつぶさに読めば、安倍首相が「『令和』には、人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つという意味が込められております」「歴史上初めて国書を典拠とする元号を決定した。(万葉集は)我が国の豊かな国民文化を象徴する国書」だと、嬉々として解説しているものとは異なる風景が見えてくる。
旅人、憶良の晩年に当たる時代は、天平文化の花開いた時代だと歴史教育では習うけれども、災害や疫病が多発し、長屋王の変、藤原四兄弟の死、藤原広嗣の乱が相次ぐなど、権力闘争と政情不安の時代であった。
聖武天皇はその災いから脱却しようと、仏教にすがって国分寺建立、大仏造営を行い、遷都を繰り返した。その混乱が収まりを見せないまま、時代は平安へと移っていく。
『萬葉集』巻五が、旅人の「凶問に報ふる歌」という悲嘆の歌に始まり、憶良の「貧窮問答歌」や「沈痾自哀文」などの作品群で終わっていることは象徴的である。
巻五全体に通奏低音のように流れているのは、ままならぬ人生の悲哀と悲憤、この世で生きることの苦しみ、嘆きだ。
考案者とされる万葉学者、中西進氏がどんな理由で「令和」を推薦したのかは知らないが、巻五が『萬葉集』の中でどのような位置づけになっているか、理解しているはずである。
以下は私の推量と独断による解釈。
「令和」という熟語が成り立つのであれば、『字通』にあるような、そもそもの漢字の意味を尊重して、「令和」とは「令に和す。すなわち、謙虚に天のお告げを聞き、その声に従う」と解釈したい。
「理不尽さと貧しさの中で苦しむ民が顧みられない世の現実を見よ、そして天の声に耳傾けよ」という為政者への思いが託されているのではないか。
これは、まさに「貧窮問答歌」に託された憶良の思いと一致するではないか。 (おわり)