徒然なるまままに

展覧会の感想や旅先のことを書いてます。

Amboiseアンボワーズは、ダ・ヴィンチ終焉の地

2005-09-07 | 美術
Juliaさまの、9月の行きたい展覧会で紹介されている レオナルド・ダ・ヴィンチ展 直筆ノート「レスター手稿」日本初公開シンポジウムもあるそうだ。教えていただいたが、参加できず残念。と、 レオナルド・ダ・ヴィンチの話題が盛り上がりそうですが、

AF277便で機内誌BonVayage2005年秋号を眺めていると、Centre Val de Loireサントル・ロワールの観光ガイドの中に、「Amboiseアンボワーズは、ダ・ヴィンチ終焉の地」という記事が。

「フランソワ1世がダ・ヴィンチをアンボワーズに招いたのは1516年。当時65歳だったがダ・ヴィンチは、《モナ・リザ》、《聖アンナと聖母子》、《洗礼者ヨハネ》の3枚の絵と二人の弟子を従えてアンボワーズに。クロ・リュセの館と2000エキュの年金を貰っている。(中略)ダ・ヴィンチは、1519年に病没するが、そのときフランソワ1世はパリ郊外にいたらしい。しかし、ヴァザーリは美術家列伝の中でまるでみてきたかのように「ダ・ヴィンチは、王の腕の中で息絶えた」と書いている。」と。「アンボワーズ城の近くにあるクロ・リュセの館は、現在、ダ・ヴィンチの記念博物館と公園に。また、ダ・ヴィンチの墓もある。また有名なシャンボール城の構想にもダ・ヴィンチが関わったとも言われ、城中央にあるルネッサンス装飾で有名な二重螺旋階段を髣髴とさせる設計も残している。」とのこと。

それで《モナ・リザ》がルーブルにあるのですね。初めて知りました。シャンボール城Chateua de Chambordは1995年に訪れたのですが、確かにそんな説明があったような、なかったような。

WikiPediaによれば、フランソワ1世は2代前のフランス王シャルル8世が始めたイタリア戦争を継続し、1515年ミラノ公国を占領しスフォルツァ家を追放した。スフォルツァ家に仕えていたレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年-1519年) は翌年フランスへ移り、ルネサンス文化を伝えることになった、とありました。フランソワ1世が戦争して獲得したのですね。

おまけ:フランス政府観光局のロワール地方のガイドはこちら
コメント (6)
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ジュネーブへ

2005-09-07 | 日記
9月6日、NRT2155発のAF277でパリCDGへ。翌朝着で0800発のAF1642でジュネーブへ。

ジュネーブ空港では、スイスなのに、フランスの出入国検査がAFに関してのみある。つまりフランスからジュネーブは国内線扱いになる。そのため、パリCDGでは、まず、フランスに入国して、すぐにセキュリティーチェックを受け、AF1642便に搭乗する。CDGのセキュリティー検査の機械が目の前で停止してしまい、あせるあせる。もう少しで乗り遅れるかと。ジュネーブ国際空港(別名コアントラン空港)では、フランスから先ず出国をして(めずらしくスタンプをもらいました。)、スイスに入国してと2回パスポートコントロールを受けて、荷物を受け取ります。フランスの国境が近いからこういうことになっているのでしょうが、面白いです。

(9月7日)
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