徒然なるまままに

展覧会の感想や旅先のことを書いてます。

ラファエロRaphael - アルテ・ピナコテーク

2005-09-24 | 美術
(9月9日)
アルテ・ピナコテークには、ラファエロ・サンティRaphael (1483-1507)は、3点の作品がある。
《カニジャーニ家の聖家族》The Canigiani Holy Family(1506/7)(図版はこちら。画像をクリックするとさらに大きくなります)は、トスカーナのコージモ大公三世の娘であるマリア・ロイジアが、パラティン伯系のヴィッテルスバハ家の選帝侯ヨハーン・ウィルヘルム(1690-1716にかけてデュッセルドルフで統治)の後妻になった際に、持参金の一部として持ってきた絵画のうちの1点。
《テンピ家の聖母》(ca.1507)は、国王ルードヴィッヒ1世が1809年に, 《垂幕の聖母》(写真はこれです)(ca.1513/14)は、1819年にルードヴィッヒ皇太子が購入したもの。

どれも、ラファエロらしい、聖母の人物表現がすばらしい。《垂幕の聖母》の聖母のイエスを見つめる横顔の表情。また、イエスの少し空を見つめるような表情は円熟した表現。また、《カニジャーニ家の聖家族》の背景の空は、澄み渡った聖家族を表現するかのような、澄んだ空色。遠景の教会や街も澄み渡って見える。
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メッシーナ《お告げの聖母》 - アルテ・ピナコテーク

2005-09-24 | 美術
(9月9日)
アントネルロ・ダ・メッシーナ(1430頃-1479)の《お告げの聖母》(1473/1474)は、黒を背景にベールを被った聖母の表情、瞳が印象的な作品。
二連祭壇画の片割れで、もう一つの翼には告知する天使が描かれていたのだろう。との展示解説。国王ルードヴィッヒ1世の審美眼の高さを示す作品のひとつ。1897年購入。
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カンディンスキーKandinsky - レーンバッハ美術館

2005-09-24 | 美術
9月8日に、ミュンヘンにあるレーンバッハ美術館The Städtische Galerie im Lenbachhausをはじめて訪れた。建物自体は、the former villa of the "painter prince" Franz von Lenbachというだけあって中庭含めて趣がある美術館。The Blue Rider派の作品を多く所蔵し、特にカンディンスキーWassily Kandinsky(1866-1912)のミュンヘン時代の作品を所蔵することで世界的に有名な美術館だ。画家であり、カンディンスキーの2人目の妻であったGabriele Muenterが、1956年に80歳の誕生日に、所蔵していた(というよりも2つの世界大戦の戦火から守り抜いた)コレクションをミュンヘンに寄贈したのが元になっている。90以上のカンディンスキーの油彩。さらに多くの水彩、テンペラ、などの他、多くの資料、彼女自身の作品25点などが寄贈された。

1896年にモネを見て、ミュンヘンに出てきて、画家の道を目指しはじめてから、1901年のファーランクスPhalanx結成、1908年のMurnau滞在、1911年のThe Blue Rider(青騎士派)展開催、1912年「芸術における精神的なもの」出版、1914年11月に戦争のためミュンターと分かれて、ロシアに帰国。この時代のカンディンスキーの作品が4室に渡って展示されていた。、

カンディンスキーは好きで、今まで多くのカンディンスキー展を見てきている。少なくとも、1987年に東京国立近代美術館で、このレーンバッハ美術館、グッゲンハイム美術館、パリポンドセンターなどから多くの作品を集めて開催されたカンディンスキー展。(これは大規模な展覧会でカタログが手元に珍しくある。)2002年に東京国立近代美術館にて開催された、レーンバッハ美術館やトレチャコフ美術館などの大作を展示したカンディンスキー展。そして、昨年9月にはパリポンピドセンターで、またあのSkyblueを鑑賞したのを覚えている。(ポンピドーセンターの作品は、3番目の妻ニーナにより寄贈されたものが元になっている。)

Murnau滞在でカンディンスキーが「色彩固有の表現力を発見した」ときの作品がいくつか。小品、たとえばNature Study from Murnau I (1909)(32.9x 44.6cm)などと Murnau With Church I (1910)が。(Murnau滞在は、2002年のカンディンスキー展でも強調されていた。)

即興Improvisaition IV(African)(1909), Impression 3 (Concert)(1911)、衛兵を描いたImpression 4(1911)、Improvisation26(Rowing) (1912)など、まだまだ主題が判別できるが、どこか色彩が深く悲しげである。

(また、Improvisation 12(Rider)(1910)、Impression VI(Sunday)(1911)は、同じく9日訪れたModerne Kunstに展示されていた。)

でも、こんなカンディンスキーもあるんだと今回発見したのは、1908年にMurnauに落ち着く前の「ロシア・モチーフ」と呼ばれる詩的なテンペラの作品。The Bride(Russian Beatuy in Landscape)(1903), The Night(Walkng Lady)(1903), Riding Couple(1906-07), Colorful Life(1907)。印象派ともいえる、点描画に近い技法で、絵筆のはけのタッチで画面が構成されている。ただ、ベースはテンペラという質感と、また褐色の背景の上に描かれているので、とてもロマティック。画題も、ロシアの女性や風景を描いてそれも詩的でロマンチックだ。Kandinskyというサインも印象的だ。

The Brideは、乳白色の青や緑をベースとした作品。草原で椅子に腰掛ける横顔の花嫁と遠くに宮殿。

The Nightは、落ち着いた赤紫色を背景に、すらっとした歩く女性が、ベールを上げ、顔を横にしてこちらを見る姿。白い雲の筆遣い、女性のベールの白が印象的。

Riding Coupleはロシア風の衣装をまとったカップルが寄り添って騎乗している姿。モスクワかと思われる風景(夜景)を背景描かれている。

Colorful Lifeは、130x162.5cmの大作で、山の上の宮殿を背景に、いろいろな肌の様々な民族衣装をまとった老若男女が描かれている。画面左下の正面を向いた少女の表情が何故か印象的。

(1987年のカンディンスキー展のカタログには、この時期の作品として、「夕暮れ(1904年)」(グワッシュ、紙)(宮城県美術館蔵)が掲載されている。)

なお、レーンバッハ美術館では、このBlue Riderというコーナーのみ鑑賞。カンディンスキーの仲間のFranz Marc, MunterやPaul Kleeの作品が展示されていた。Paul Kleeについては別稿を後日起こしたい。

参考
-カンディンスキー展 May1987 (東京、京都)
-The Blue Rider in the Lenbachhaus, Munchen, Prestel, 2000, ISBN 3-7913-2216-8
-Olga's Galleryには、上記の可也のクリップがあります。Related article: Three Wives of Wassily Kandinskyの話も今回初めて知りました。 
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ピランPiranの歴史

2005-09-24 | 歴史
ピランPiranは、アドリア海に突き出した岬の先のにある、スロベニア(旧ユーゴスラビアでオーストリア、クロアチア、イタリアなどに国境を接する国)で一番美しいという小さな町です。そのピランPiranの歴史をGuide Book-to the Coast(IMAGE d.o.o., Stopniska 8, Protoroz)というパンフレットを元に紹介します。

なぜ、紹介したくなるかというと、この町は、今もイタリアやオーストリアに国境からすぐの所にありますが、そのため、神聖ローマ帝国、スラブ人の侵略、ヴェネチアの侵略、ナポレオンの進軍、オーストリアとイタリアの支配を受けたという、とても複雑な歴史の町だからです。

さてピランに、はじめにやってきたのはギリシア人です(これはあくまでも説ですが)。ピランはギリシア語のPyros(火の意味)に由来するともいわれます。隣町の現在のKoperに向かう灯台があったとの伝説もあります。Piran博物館には確かにギリシア風の壷が展示されていました。ローマはB.C.178年にIllyriansとCeltsに宣戦します。このAquilean colonyアクイレイヤ植民地の中の'Slovenian'海岸もローマ化されていきます。

*1 アクイレイヤは、トリエステの西25kmほどのところにある現在の人口は3000人程の町。その名の由来は鷲(アクイラ)に負っている。ゲルマン族との戦いに際しては、アウグストゥス皇帝の本営がここに置かれた。ギリシア正教の総大司教領の所在地(554-1751)となった。世界遺産に最近指定されている。(今回行きそびれています。残念。)

5世紀から6世紀になるとスラブ人が内陸部にせまり、ローマは海岸線に後退していきます。そして、8世紀後半にフランク王国に占領されます。同時にスラブ人が移住してきます。

9世紀になると北アドリア海はヴェネチアの支配下になります。ヴェニスとピランがはじめて商取引をしたのが933年。ヴェネチアの主権は1210年まで続きます。(写真はベネチア風の窓)その後the Patriarchs of Aquileiaアクイレイヤ総大司教領の支配下になります。アクイレイヤ総大司教領とヴエネチアの反目の間にはさまれ、ピランは一旦自由都市となりますが、1283年には、再び、塩取引の独占狙ったヴェネチア支配下になります。ピランは常にヴェネチアのへの忠誠をつくし、トリエステTiriesteやフリウリFriuliの教皇領に対抗し、最後にはジェノバにも対抗しました。政治的独立よりも経済的利益を重視したのです

Campo Formio条約により、1797年にヴェネチアの支配は終わり、オーストリアがナポレオンからこの地を獲得しました。1806年から1813年の短い間、フランスの支配下になりますが、またオーストリア支配下に戻り、それは1918年まで続きます。近くのProtorozに塩田は広がり、ツーリストも来るようになり、だんだん栄えるようになってきました。

第一次世界大戦後、ピランはイタリア領になりました。イタリアは、スロベニア語の学校を閉鎖し、名前のイタリア語化を進めました。ファシストの弾圧と共産主義が広がりました。第二次世界大戦後ピランは、ユーゴスラビアが管轄のZoneBに属しました。トリエステを含むZoneAは連合国支配下になりました。1954年にZoneAはイタリアに、ZoneBはユーゴスラビアになりました。1991年にユーゴスラビアが分割され、現在はスロベニアに属しています。ピランの人々は主に観光と漁業に従事していますが、後者は、クロアチアとの国境ができて、自由に海に出られないために、後退しています。

本パンフレットには、Koper(Zone BのときのHeadquarterだった)、Izola、Portoroz(塩田の中心、いまも塩田がある)も紹介されていますが、すぐ近くの町なのに、微妙に歴史が違います。非常にイタリア的です。


Piranの町の風景と訪問記はこちら

UPDATED 2005-10-18
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