日本絵画名品展 -信仰の美・世俗の美- 大和文華館
2006年4月1日から5月14日
折角奈良まで足を運んだからと、大和文華館をはじめて訪れてみた。焼き物の展覧会でいくつかいい作品を見ていて気になっていた美術館。例えば、華麗なる伊万里、雅の京焼 で、「染付山水図大鉢」(1630~40年代)「色絵鴛鴦香合」(仁清 1合 17世紀)。国宝燕子花図 光琳 元禄の偉才 (根津美術館)で「錆絵山水図四方火入れ」(乾山作・光琳画)。
案内には、国宝「松浦図屏風」と国宝「一字蓮台法華経」が出展されているという。後者が気になっていた。16日に天台宗開宗1200年記念 特別展 最澄と天台の国宝で、「国宝 一字蓮台法華経」(9巻のうち 巻第3 平安時代・11世紀 福島・龍興寺蔵)というのを拝見。同じ、国宝「一字蓮台法華経」が出展されるといえば、また、見たくなります。しかも、天台宗開宗1200年記念 特別展でのNHKの解説ビデオでは、大和文華館の「一字蓮台法華経」を紹介していたではないですか。
そんなわけで、場所も定かではなく、どんな美術館なのか、他に何が出展されているかの情報もなく、はじめて大和文華館を訪れました。
近鉄奈良からは難波行きに乗り250円。西大寺の2つ先の学園前駅で降ります。駅前で降りればどうにかなるかと思いきや、あまり親切な案内板は無いので、地図のついたちらしを駅の構内で再度探して、徒歩7分。それから、立派なお庭(文華苑)のエントランスを通り、美術館に到着です。
まずは、信仰の美のパート。
重文 佐竹本三十六歌仙断簡『小大君』。これ出光美術館での『歌仙の饗宴』で見そこねた作品。『歌仙の饗宴』では、他の佐竹本三十六歌仙断簡を見て、状態も悪くほとんど感動しなかったのですが、この『小大君』を見て考えが変りました。艶やかな十二単の発色も鮮やか。素晴らしいですね。
「伊勢集断簡 石山切」。「石山切」は『本願寺本三十六人家集』(白河上皇への献上品とされる。1112年)のうちの『伊勢集』と『貫之集』下の二冊を、昭和四年に断簡したもの。石山本願寺の旧地に因んで名付けらた。「平安の仮名、鎌倉の仮名」で、出光美術館所蔵の「石山切」の三種類の色の料紙を見て、綺麗だなあと思っていたが、大和文華館の「石山切」は、色のついた料紙を貼り合わせての絵にしています。灰色の地に薄茶、藍、黄茶で里山を描き、さらに雲がたなびき、雁の一群が飛んでいます。

この「小大君」「伊勢集断簡 石山切」2点は、ちらしには、来春開催の「茶の湯と美術」のところに載っていたので、見られないかと思っていたので、ラッキーでした。
国宝「一字蓮台法華経 普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぱつぼん)」。見返し絵もきちんと展示されていますし、色の変った蓮台に一字一字が書かれています。料紙の上界、下界にも絵が描かれています。

こちらは龍興寺の一字蓮台法華経(「最澄と天台の国宝」へのSRCリンク)

龍興寺は、天海大僧正(てんかいだいそうじょう)が出家した天台宗の名刹(めいさつ)です。寺に伝わる一字蓮台法華経(いちじれんだいほけきょう)は、福島県内に3つしかない国宝の1つで、書き終えるまで280年を要したといわれています。龍興寺は、嘉祥元年(848)慈覚大師によって開山され、本尊を阿弥陀如来(あみだにょらい)とされています。建物の跡の土中から千体観音が掘り出され、寺内に奉安されていますが、この仏体の基礎供養として建立され、当時の人々の崇敬の深さと隆盛を極めた寺院であったと史実書籍等にも記されています。(会津美里町のHPから)
新国宝第二号の指定を受けたこの一字蓮台法華経は、無量義経、観普堅経の開結二巻をともなう十巻の法華経であるが、第六巻が散逸している。料紙に銀界を引き、1行十七個の蓮台を、緑青、藍、淡黒、赤などの顔料をもって手書きし、一字づつ経文を墨書してあり、書風は端正かつ美麗の一語につきる。写経をもって現世に浄土を具現する祈りをこめたもので、平安後期の特色をもった和様の経文が調和し、その美しさは王朝時代を如実に物語っている。数百年の風雪にも耐えたものとは思われない墨痕は現代科学をもってしても模倣は難しいと言われている。書き終えるまで280年を要したという。(会津美里町のHPから)
なお、京都国立博物館には、如来神力品・嘱累品が所蔵されており、龍興寺と一具のもの。(文化遺産オンライン 画像あり)
この大和文華館所蔵の一字蓮台法華経は、WikiPediaによれば、もとは原三渓旧蔵とのこと。料紙も異なるので龍興寺のもとは異なるのでしょうか?
金銀の砂子や切箔をまき、彩色を施した料紙には、贅が尽くされている。経文の文字を蓮台に乗せて金輪で囲むのは、文字そのものを仏身と見なす考えによる。経巻を荘厳(しょうごん)することで、篤信のほどを示そうとしたのであろう。法華経信仰と貴族社会の洗練された美意識が生み出した宗教美の結晶と言える。また、この経巻の見返には、吹抜屋台(ふきぬけやたい)の室内で法事を営む情景を描き、読経する僧らの表情まで巧みに表現している。平安時代の大和絵としても貴重な作品である。
重文「山水図屏風 伝周文筆 六曲一双」(室町)。大作です。切り立った岩のような山谷は、中国の風景。


周文は室町中期の画僧で、字を天章、号を越渓という。京都相国寺の禅僧で、画を如拙に習ったとされる。応永30年(1423)に画僧として幕府の使節に加わり朝鮮(李朝)に渡り、のちには幕府の御用絵師となっている。弟子に雪舟、墨渓、岳翁などがいる。室町水墨画の巨匠のひとりで、いわゆる応永詩画軸(主に山水図)や山水図屏風を中心に周文筆とされる伝称作品は多いが、誰もが真筆と認める作品は一点も現存しない。本図は、馬遠、夏圭らの中国南宋院体山水図に学んだ跡が顕著で、余白を生かした瀟洒な画風を示し、有力な伝周文画の一つである。各隻に「越渓周文」の朱文方印が捺されているが、後印である。
重文「維摩居士像 文清筆 長禄元年(1457)存畊祖黙賛」。

本図は、几(き)に寄り、綸巾(かんきん)をかぶり、寛袖(かんしゅう)の長い杉(さん)をまとい、手に払子を持つ維摩居士の半身像が描かれている。図中に朱文方印「文清」が捺されている。文清は15世紀中頃に活躍した大徳寺ゆかりの水墨画家であり、山水図や頂相(ちんぞう)<禅僧の肖像画>に優れた作品を遺した。図上に禅僧存畊祖黙の賛があり、長禄元年(1457)の年記が見える。そして「荒川駿河守詮氏(するがのかみあきうじ)が老後を越中利(砺)波(となみ)郡で過ごし、その地に没した後、禅僧である子の善済(ぜんざい)が詮氏の遺言によってその屋敷を仏寺とし、室中にこの像を掲げて詮氏の姿に擬した」ことが知られる。
重文「婦人像」
信仰の美の最後は「婦人像」 慶長美人図とよばれていたが、桃山時代の作だそうで。

白地に雲形、枝紅葉、貝、流水の模様のある華麗な小袖を着た垂髪の貴婦人が、上畳の上に正坐している。この小袖は「辻が花染」というしぼり染めを主に描絵、摺箔などの技法を合わせて装飾されたものである。手に持つ数珠は、本像が像主の死後に迫真の像として描かれたことを示すものである。ただ画面の四周が切りつめられ、画面上部にあったと思われる賛文が失われているので、能面のようなこの美貌の主も、その名を探索することは困難。おそらくしかるべき武将の奥方であったであろう。本図は画品が高く、しかも画技が秀でている上に、衣服の形状や模様も室町時代から桃山時代にかけての辻が花染盛期の特色を明示しているので、その頃に活躍した狩野派の名手の筆になったものと推定される。
次に、世俗の美のパート。
国宝「婦女遊楽図屏風(松浦屏風)」六曲一双 江戸前期 紙本金色著色。松浦家伝来。八人の婦女が描かれています。派手な着物を着ています。松浦の女性の顔立ちなのでしょうか、顔立ちに一寸特徴があります。
重美 「阿国歌舞伎草紙」 絵2段(茶屋遊・念仏踊)詞書一段 桃山時代 紙本著色」紙本著色のためか、まだまだ絵具が状態がよく18.6cm x 27.7cmの小作品なのですが、人物の表情とかよく判り楽しめます。
輪舞図屏風とか、不思議な絵です。算術の問題でしょうか。
司馬江漢が3点あった。
「美人図 蕭亭春重落款 1775年ごろ」。春信の急死の後に2世春信として売り出していた頃の作品でないかと。作品自体は、全く春信。司馬江漢もはじめは浮世絵師としてデビューしたらしい。
「海浜漁夫図 寛政11年(1799年)絹本墨画淡彩」図柄が西洋漫画です。
「七里ヶ浜図 絹本油彩」これは、西洋画かぶれの司馬江漢。空を青く塗るのは西洋画というのがよくわかる
いろいろ試しています。
そして、何と琳派の美
「伊勢物語図色紙 伝俵屋宗達筆 六段芥川」
「伊勢物語図色紙 伝俵屋宗達筆 八十段衰えたる家いえ」
の2点。旧益田家旧蔵(36面のうち)。伊勢物語図色紙現在59面が発見されているという。
共に色紙で小さな作品。でも紙本金色著色で豪華な色紙。
重文 「中村内蔵助像 伝尾形光琳筆 元禄17年(1704年)中根元圭賛」 内蔵助の裃の細密な表現は、型紙でも使って染めたのでしょうか。

中村内蔵助(なかむらくらのすけ)は京の銀座の役人を務めていた。算学者、中根元圭(なかねげんけい)の賛によって、この作品は36歳を迎えた内蔵助が、予め没後の号を定めた際に、尾形光琳に描かせたことがわかる。光琳と内蔵助は親密な関係にあった。内蔵助の娘を養育し、後に、その娘が光琳の息子と結婚することになる。最大の理解者である中村内蔵助のために、光琳が心を込めて描いた肖像画である。この作品には光琳特有の張りのある線描が駆使されている。全体の姿はピラミッド形にがっちりと構成され、強調された両膝がしっかりと支えている。単純化されながら、量感を失っていない。日本絵画史上を見渡しても類がないほどの強い造形性を備えた人体表現である。
このほかに
扇面貼交手筥<重文> 尾形光琳筆
流水図広蓋 尾形光琳筆
武蔵野墨田川図乱箱<重文> 尾形乾山筆 寛保3年(1743)
が並んでいた。
画像は大和文華館へのSRCリンクです。青字は同引用です。
2006年4月1日から5月14日
折角奈良まで足を運んだからと、大和文華館をはじめて訪れてみた。焼き物の展覧会でいくつかいい作品を見ていて気になっていた美術館。例えば、華麗なる伊万里、雅の京焼 で、「染付山水図大鉢」(1630~40年代)「色絵鴛鴦香合」(仁清 1合 17世紀)。国宝燕子花図 光琳 元禄の偉才 (根津美術館)で「錆絵山水図四方火入れ」(乾山作・光琳画)。
案内には、国宝「松浦図屏風」と国宝「一字蓮台法華経」が出展されているという。後者が気になっていた。16日に天台宗開宗1200年記念 特別展 最澄と天台の国宝で、「国宝 一字蓮台法華経」(9巻のうち 巻第3 平安時代・11世紀 福島・龍興寺蔵)というのを拝見。同じ、国宝「一字蓮台法華経」が出展されるといえば、また、見たくなります。しかも、天台宗開宗1200年記念 特別展でのNHKの解説ビデオでは、大和文華館の「一字蓮台法華経」を紹介していたではないですか。
そんなわけで、場所も定かではなく、どんな美術館なのか、他に何が出展されているかの情報もなく、はじめて大和文華館を訪れました。
近鉄奈良からは難波行きに乗り250円。西大寺の2つ先の学園前駅で降ります。駅前で降りればどうにかなるかと思いきや、あまり親切な案内板は無いので、地図のついたちらしを駅の構内で再度探して、徒歩7分。それから、立派なお庭(文華苑)のエントランスを通り、美術館に到着です。
まずは、信仰の美のパート。

この「小大君」「伊勢集断簡 石山切」2点は、ちらしには、来春開催の「茶の湯と美術」のところに載っていたので、見られないかと思っていたので、ラッキーでした。

こちらは龍興寺の一字蓮台法華経(「最澄と天台の国宝」へのSRCリンク)

龍興寺は、天海大僧正(てんかいだいそうじょう)が出家した天台宗の名刹(めいさつ)です。寺に伝わる一字蓮台法華経(いちじれんだいほけきょう)は、福島県内に3つしかない国宝の1つで、書き終えるまで280年を要したといわれています。龍興寺は、嘉祥元年(848)慈覚大師によって開山され、本尊を阿弥陀如来(あみだにょらい)とされています。建物の跡の土中から千体観音が掘り出され、寺内に奉安されていますが、この仏体の基礎供養として建立され、当時の人々の崇敬の深さと隆盛を極めた寺院であったと史実書籍等にも記されています。(会津美里町のHPから)
新国宝第二号の指定を受けたこの一字蓮台法華経は、無量義経、観普堅経の開結二巻をともなう十巻の法華経であるが、第六巻が散逸している。料紙に銀界を引き、1行十七個の蓮台を、緑青、藍、淡黒、赤などの顔料をもって手書きし、一字づつ経文を墨書してあり、書風は端正かつ美麗の一語につきる。写経をもって現世に浄土を具現する祈りをこめたもので、平安後期の特色をもった和様の経文が調和し、その美しさは王朝時代を如実に物語っている。数百年の風雪にも耐えたものとは思われない墨痕は現代科学をもってしても模倣は難しいと言われている。書き終えるまで280年を要したという。(会津美里町のHPから)
なお、京都国立博物館には、如来神力品・嘱累品が所蔵されており、龍興寺と一具のもの。(文化遺産オンライン 画像あり)
この大和文華館所蔵の一字蓮台法華経は、WikiPediaによれば、もとは原三渓旧蔵とのこと。料紙も異なるので龍興寺のもとは異なるのでしょうか?
金銀の砂子や切箔をまき、彩色を施した料紙には、贅が尽くされている。経文の文字を蓮台に乗せて金輪で囲むのは、文字そのものを仏身と見なす考えによる。経巻を荘厳(しょうごん)することで、篤信のほどを示そうとしたのであろう。法華経信仰と貴族社会の洗練された美意識が生み出した宗教美の結晶と言える。また、この経巻の見返には、吹抜屋台(ふきぬけやたい)の室内で法事を営む情景を描き、読経する僧らの表情まで巧みに表現している。平安時代の大和絵としても貴重な作品である。


周文は室町中期の画僧で、字を天章、号を越渓という。京都相国寺の禅僧で、画を如拙に習ったとされる。応永30年(1423)に画僧として幕府の使節に加わり朝鮮(李朝)に渡り、のちには幕府の御用絵師となっている。弟子に雪舟、墨渓、岳翁などがいる。室町水墨画の巨匠のひとりで、いわゆる応永詩画軸(主に山水図)や山水図屏風を中心に周文筆とされる伝称作品は多いが、誰もが真筆と認める作品は一点も現存しない。本図は、馬遠、夏圭らの中国南宋院体山水図に学んだ跡が顕著で、余白を生かした瀟洒な画風を示し、有力な伝周文画の一つである。各隻に「越渓周文」の朱文方印が捺されているが、後印である。

本図は、几(き)に寄り、綸巾(かんきん)をかぶり、寛袖(かんしゅう)の長い杉(さん)をまとい、手に払子を持つ維摩居士の半身像が描かれている。図中に朱文方印「文清」が捺されている。文清は15世紀中頃に活躍した大徳寺ゆかりの水墨画家であり、山水図や頂相(ちんぞう)<禅僧の肖像画>に優れた作品を遺した。図上に禅僧存畊祖黙の賛があり、長禄元年(1457)の年記が見える。そして「荒川駿河守詮氏(するがのかみあきうじ)が老後を越中利(砺)波(となみ)郡で過ごし、その地に没した後、禅僧である子の善済(ぜんざい)が詮氏の遺言によってその屋敷を仏寺とし、室中にこの像を掲げて詮氏の姿に擬した」ことが知られる。
信仰の美の最後は「婦人像」 慶長美人図とよばれていたが、桃山時代の作だそうで。

白地に雲形、枝紅葉、貝、流水の模様のある華麗な小袖を着た垂髪の貴婦人が、上畳の上に正坐している。この小袖は「辻が花染」というしぼり染めを主に描絵、摺箔などの技法を合わせて装飾されたものである。手に持つ数珠は、本像が像主の死後に迫真の像として描かれたことを示すものである。ただ画面の四周が切りつめられ、画面上部にあったと思われる賛文が失われているので、能面のようなこの美貌の主も、その名を探索することは困難。おそらくしかるべき武将の奥方であったであろう。本図は画品が高く、しかも画技が秀でている上に、衣服の形状や模様も室町時代から桃山時代にかけての辻が花染盛期の特色を明示しているので、その頃に活躍した狩野派の名手の筆になったものと推定される。
次に、世俗の美のパート。
「美人図 蕭亭春重落款 1775年ごろ」。春信の急死の後に2世春信として売り出していた頃の作品でないかと。作品自体は、全く春信。司馬江漢もはじめは浮世絵師としてデビューしたらしい。
「海浜漁夫図 寛政11年(1799年)絹本墨画淡彩」図柄が西洋漫画です。
「七里ヶ浜図 絹本油彩」これは、西洋画かぶれの司馬江漢。空を青く塗るのは西洋画というのがよくわかる
いろいろ試しています。
そして、何と琳派の美
の2点。旧益田家旧蔵(36面のうち)。伊勢物語図色紙現在59面が発見されているという。
共に色紙で小さな作品。でも紙本金色著色で豪華な色紙。

中村内蔵助(なかむらくらのすけ)は京の銀座の役人を務めていた。算学者、中根元圭(なかねげんけい)の賛によって、この作品は36歳を迎えた内蔵助が、予め没後の号を定めた際に、尾形光琳に描かせたことがわかる。光琳と内蔵助は親密な関係にあった。内蔵助の娘を養育し、後に、その娘が光琳の息子と結婚することになる。最大の理解者である中村内蔵助のために、光琳が心を込めて描いた肖像画である。この作品には光琳特有の張りのある線描が駆使されている。全体の姿はピラミッド形にがっちりと構成され、強調された両膝がしっかりと支えている。単純化されながら、量感を失っていない。日本絵画史上を見渡しても類がないほどの強い造形性を備えた人体表現である。
このほかに
扇面貼交手筥<重文> 尾形光琳筆
流水図広蓋 尾形光琳筆
武蔵野墨田川図乱箱<重文> 尾形乾山筆 寛保3年(1743)
が並んでいた。
画像は大和文華館へのSRCリンクです。青字は同引用です。