夏目漱石の美術世界展 @東京芸術大学大学美術館
序章 「吾輩」が見た漱石と美術
夏目漱石の処女小説『吾輩ハ猫デアル』。装丁・挿絵を担当したのは画家・橋口五葉だった。五葉にとってもまた、これが装丁家としてのデビュー作、五葉は、『三四郎』『それから』などの装丁も担当する。それにしても、五葉の描く、猫はまるでエジプトの猫のようだから印象的。
第1章 漱石文学と西洋美術
『坊ちゃん』に
漱石も英国留学中に見たであろうターナーの傑作のひとつとして
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー 金枝 1834年テイト、ロンドン
が展示されている。
画題の「金枝The Golden Bough」は、、古代ローマの詩人ウェルギリウスの叙事詩『アエネイス Aeneis』book VIに出てくる有名なエピソード。アエネアス Aeneasが地下世界への冒険に赴こうとしたところ、巫女から「捧げものとして金枝 / が必要である」と教えられる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Aeneid
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Golden_Bough_(mythology)
Sir James George Frazer (1854–1941)のThe Golden Bough: A Study in Magic and Religionという書も、ターナの金枝に由来するとのこと。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Golden_Bough
同じく、バイロンの詩「チャイルド・ハロルドの巡礼」に題をとった
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー チャイルド・ハロルドの巡礼 1832年(1859-61年版行)テイト、ロンドン
にも、イタリアのイメージとして、松の木が描かれている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Childe_Harold%27s_Pilgrimage
「吾輩」には、アンドレア・デル・サルトを引用したこんな一節もあるようだ。
と。
『野分』七
には、
メロスのヴィーナスも登場するとのこと。
『薤露行』
は、マロリーの『アーサー物語』の翻案。
漱石は、薤露行を書くにあたって、いくつかの絵画を参考にしたのではという。
ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス シャロットの女 1894年 リーズ市立美術館
ダンテ・ガブリエル・ロセッティ レディ・リリス1867 年
『倫敦塔』
では、下記の絵画を参考にしたとのこと。
ポール・ドラロージュ レディ・ジェーン・グレイの処刑 1833 ナショナル・ギャラリー
ポール・ドラロージュ ロンドン塔の王子たち 1931 ワレス・コレクション
今回は、代わりに、下記が展示されていた。
ジョン・エヴァレット・ミレイ ロンドン塔幽閉の王子 1878 年 ロンドン大学 ロイヤル・ホロウェイ絵画コレクション
『夢十夜』第十夜
は、漱石がロンドンで「ガダラの豚の奇跡」という絵を見て着想したのではないかという。
ブリトン・リヴィエアー ガダラの豚の奇跡 1883 年テイト、ロンドン
『夢十夜』第十夜は、
「ガダラの豚の奇跡」は、マタイ8.28~34
『文学評論』では
2-2,2-3で、下記の図版を参考に論がすすめられているとのこと。
ウィリアム・ホガース「選挙」第一図 「 候補者の饗応」1755-58 年
ウィリアム・ホガース「当世風の結婚」第六図 1745 年
第2章 漱石文学と古美術
『行人』8では、帝室博物館を見る様子が出てくる。とのこと。応挙の波濤図について触れられているという。
渡辺崋山が自殺直前に書いた絵が展示されている。この絵は、夏目漱石の「こころ」の最後に出てくる。
渡辺崋山 黄粱一炊図 1841 年
『こころ』56
第3章 文学作品と美術 『草枕』『三四郎』『それから』『門』
草枕
冒頭は、
などと書いてあったとは覚えていない。読んだつもり読んでいない証拠。
ミレイのオフェリヤが引用されているという。
残念ながらパネル展示。
長沢芦雪については、次のような引用があるとのことで
長沢蘆雪 山姥図 財団法人遠山記念館
が展示されていた。
伊東若冲と黄檗の高泉和尚についての言及もあるとのこと、
伊藤若冲 鶴図 1793 年
伊藤若冲 梅鶴図 ヤング開発株式会社
高泉性敦 一行書「松吟没字詩」17 世紀
が展示されていた。
草枕を画題にした作品として、
松岡映丘ほか 草枕絵巻(巻一) 1926 年 奈良国立博物館
[参考出品]松岡映丘ほか 草枕絵巻(複製) 岩波書店
松岡映丘湯煙(草枕) 1928 年 練馬区立美術館寄託
などが展示されていた。
奈良国立博物館のHPにいくと、松岡映丘ほか 草枕絵がある。
HOME > アーカイブズ - 画像データベース > 画像情報
小さいが画像でてくる。全巻展示が見てみたい。
松岡正剛さんの千夜千冊の583夜にも草枕は取り上げられていて、上記のようなところを引用し、『草枕』はしだいに雅趣と奇趣を求めた話になっていく、と評している。
http://1000ya.isis.ne.jp/0583.html
三四郎
ジャン=バティスト・グルーズ 少女の頭部像 ヤマザキマザック美術館
が展示されていた。三四郎では、ヴォラプチュアスvoluptous(色っぽい)な表情と表現されている。
ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス 人魚 1900 年王立芸術院、ロンドン
も展示されていた。
「三四郎」に出てくる三井画伯のモデルは和田英作。原口画伯のモデルである黒田清輝とのこと。
ベラスケス原作 和田英作模写 マリアナ公女 1903 年東京藝術大学
というのが出展されている。三四郎で下記のように表現されているように確かにうまくない。
深見画伯のモデルは、浅井忠とのこと。三四郎で下記のように表現されている。
浅井忠 ベニス(表)(裏) 1902 年東京国立博物館
浅井忠 雲 1903年頃 静岡県立美術館
が展示されていた。
それから
青木繁《わだつみのいろこの宮》下絵1907 年栃木県立美術館
が展示されていた。それからでは、下記ように引用されている。
仇英、応挙は、次のように引用されている。それぞれ作品例が展示されていた。
門
門には、こんな一節があるとのことで、
岸駒 虎図(《龍虎図》双幅のうち左幅) 19 世紀 東京藝術大学
が展示されていた。
酒井抱一 月に秋草図屛風 東京国立博物館寄託
は、最後の2週間の展示。
第4章 漱石と同時代美術
漱石が東京朝日新聞に書いた「文展と芸術」に登場する1912年の第6回文展の出品作とこれに対する漱石な批評が並んでいた。
重文 今村紫紅 近江八景 1912 年 東京国立博物館
寺崎広業 瀟湘八景 1912 年 秋田県立近代美術館
重文 横山大観 瀟湘八景 1912 年 東京国立博物館
安田靫彦 夢殿 1912 年東京国立博物館
中村不折 巨人の蹟 1912年 上伊那広域連合
漱石の批評はともかく、第6回文展は、傑作揃いだったということと、寺崎広業の瀟湘八景はうまいが工夫がない、横山大観 瀟湘八景は、着想が面白い、今村紫紅 も色彩が特徴ということでしょうか?
第5章 親交の画家たち
第6章 漱石自筆の作品 絵は素人では。字はうまい。
第7章 装幀と挿画 橋口五葉の作品が並ぶ。
と続いた。
みたから読むか
序章 「吾輩」が見た漱石と美術
夏目漱石の処女小説『吾輩ハ猫デアル』。装丁・挿絵を担当したのは画家・橋口五葉だった。五葉にとってもまた、これが装丁家としてのデビュー作、五葉は、『三四郎』『それから』などの装丁も担当する。それにしても、五葉の描く、猫はまるでエジプトの猫のようだから印象的。
第1章 漱石文学と西洋美術
『坊ちゃん』に
「あの松を見給え、幹(みき)が真直(まっすぐ)で、上が傘のように開いてターナーの画(え)にありそうだね」と赤シャツが野だにいうと(略) 」という一節がある。
漱石も英国留学中に見たであろうターナーの傑作のひとつとして
が展示されている。
画題の「金枝The Golden Bough」は、、古代ローマの詩人ウェルギリウスの叙事詩『アエネイス Aeneis』book VIに出てくる有名なエピソード。アエネアス Aeneasが地下世界への冒険に赴こうとしたところ、巫女から「捧げものとして金枝 / が必要である」と教えられる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Aeneid
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Golden_Bough_(mythology)
Sir James George Frazer (1854–1941)のThe Golden Bough: A Study in Magic and Religionという書も、ターナの金枝に由来するとのこと。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Golden_Bough
同じく、バイロンの詩「チャイルド・ハロルドの巡礼」に題をとった
にも、イタリアのイメージとして、松の木が描かれている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Childe_Harold%27s_Pilgrimage
「吾輩」には、アンドレア・デル・サルトを引用したこんな一節もあるようだ。
彼の友は金縁の眼鏡越しに主人の顔を見ながら、「そう初めから上手には描けないさ、第一、室内の想像ばかりで絵が描ける訳のものではない。昔、イタリアの大家アンドレア・デル・サルトが言った事がある。『絵を描くならなんでも自然その物を写せ。天に星辰あり。地に露華あり。飛ぶに禽あり。走るに獣あり。池に金魚あり。枯木に寒鴉あり。自然はこれ一幅の大活画(だいかつが)なり』
と。
『野分』七
には、
メロスのヴィーナスも登場するとのこと。
「上段にはメロスの愛神(ヴィーナス)の模像を、ほの暗き室(へや)の隅に夢かとばかり据(す)えてある。女の眼は端(はし)なくもこの裸体像の上に落ちた。
「あの像は」と聞く。
「無論模造です。本物は巴理(パリ)のルーヴルにあるそうです。しかし模造でもみごとですね。腰から上の少し曲ったところと両足の方向とが非常に釣合がよく取れている。――これが全身完全だと非常なものですが、惜しい事に手が欠けてます」
「本物も欠けてるんですか」
「ええ、本物が欠けてるから模造もかけてるんです」
『薤露行』
は、マロリーの『アーサー物語』の翻案。
漱石は、薤露行を書くにあたって、いくつかの絵画を参考にしたのではという。
『倫敦塔』
では、下記の絵画を参考にしたとのこと。
今回は、代わりに、下記が展示されていた。
『夢十夜』第十夜
は、漱石がロンドンで「ガダラの豚の奇跡」という絵を見て着想したのではないかという。
『夢十夜』第十夜は、
(前略)庄太郎の云うところによると、電車を下りるとすぐと原へ出たそうである。非常に広い原で、どこを見廻しても青い草ばかり生はえていた。女といっしょに草の上を歩いて行くと、急に絶壁きりぎしの天辺てっぺんへ出た。その時女が庄太郎に、ここから飛び込んで御覧なさいと云った。底を覗のぞいて見ると、切岸きりぎしは見えるが底は見えない。庄太郎はまたパナマの帽子を脱いで再三辞退した。すると女が、もし思い切って飛び込まなければ、豚ぶたに舐なめられますが好うござんすかと聞いた。庄太郎は豚と雲右衛門が大嫌だいきらいだった。けれども命には易かえられないと思って、やっぱり飛び込むのを見合せていた。ところへ豚が一匹鼻を鳴らして来た。庄太郎は仕方なしに、持っていた細い檳榔樹びんろうじゅの洋杖ステッキで、豚の鼻頭はなづらを打ぶった。豚はぐうと云いながら、ころりと引ひっ繰くり返かえって、絶壁の下へ落ちて行った。庄太郎はほっと一ひと息接いきついでいるとまた一匹の豚が大きな鼻を庄太郎に擦すりつけに来た。庄太郎はやむをえずまた洋杖を振り上げた。豚はぐうと鳴いてまた真逆様まっさかさまに穴の底へ転ころげ込んだ。するとまた一匹あらわれた。この時庄太郎はふと気がついて、向うを見ると、遥はるかの青草原の尽きる辺あたりから幾万匹か数え切れぬ豚が、群むれをなして一直線に、この絶壁の上に立っている庄太郎を目懸めがけて鼻を鳴らしてくる。庄太郎は心しんから恐縮した。けれども仕方がないから、近寄ってくる豚の鼻頭を、一つ一つ丁寧ていねいに檳榔樹の洋杖で打っていた。不思議な事に洋杖が鼻へ触さわりさえすれば豚はころりと谷の底へ落ちて行く。覗のぞいて見ると底の見えない絶壁を、逆さかさになった豚が行列して落ちて行く。自分がこのくらい多くの豚を谷へ落したかと思うと、庄太郎は我ながら怖こわくなった。けれども豚は続々くる。黒雲に足が生はえて、青草を踏み分けるような勢いで無尽蔵むじんぞうに鼻を鳴らしてくる。
庄太郎は必死の勇をふるって、豚の鼻頭を七日なのか六晩むばん叩たたいた。けれども、とうとう精根が尽きて、手が蒟蒻こんにゃくのように弱って、しまいに豚に舐なめられてしまった。そうして絶壁の上へ倒れた。
健さんは、庄太郎の話をここまでして、だからあんまり女を見るのは善よくないよと云った。自分ももっともだと思った。けれども健さんは庄太郎のパナマの帽子が貰いたいと云っていた。
庄太郎は助かるまい。パナマは健さんのものだろう。
「ガダラの豚の奇跡」は、マタイ8.28~34
8:28 それから、向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人がふたり墓から出て来て、イエスに出会った。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。
8:29 すると、見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」
8:30 ところで、そこからずっと離れた所に、たくさんの豚の群れが飼ってあった。
8:31 それで、悪霊どもはイエスに願ってこう言った。「もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。」
8:32 イエスは彼らに「行け。」と言われた。すると、彼らは出て行って豚にはいった。すると、見よ、その群れ全体がどっとがけから湖へ駆け降りて行って、水におぼれて死んだ。
8:33 飼っていた者たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれた人たちのことなどを残らず知らせた。
8:34 すると、見よ、町中の者がイエスに会いに出て来た。そして、イエスに会うと、どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った。
『文学評論』では
2-2,2-3で、下記の図版を参考に論がすすめられているとのこと。
第2章 漱石文学と古美術
『行人』8では、帝室博物館を見る様子が出てくる。とのこと。応挙の波濤図について触れられているという。
その日自分は父に伴《つ》れられて上野の表慶館を見た。今まで彼に随《つ》いてそういう所へ行った事は幾度となくあったが、まさかそのために彼がわざわざ下宿へ誘いに来《き》ようとは思えなかった。自分は父と共に下宿の門《かど》を出て上野へ向う途々《みちみち》も、今に彼の口から何か本当の用事が出るに違《ちがい》ないと予期していた。しかしそれをこっちから聞く勇気はとても起らなかった。兄の名も嫂《あによめ》の名も彼の前には封じられた言葉のごとく、自分の声帯を固く括《くく》りつけた。
表慶館で彼は利休の手紙の前へ立って、何々せしめ候《そろ》……かね、といった風に、解らない字を無理にぽつぽつ読んでいた。御物《ごもつ》の王羲之《おうぎし》の書を見た時、彼は「ふうんなるほど」と感心していた。その書がまた自分には至ってつまらなく見えるので、「大いに人意を強うするに足るものだ」と云ったら、「なぜ」と彼は反問した。
二人は二階の広間へ入った。するとそこに応挙《おうきょ》の絵がずらりと十幅ばかりかけてあった。それが不思議にも続きもので、右の端《はじ》の巌《いわ》の上に立っている三羽の鶴と、左の隅《すみ》に翼をひろげて飛んでいる一羽のほかは、距離にしたら約二三間の間ことごとく波で埋《うま》っていた。
「唐紙《からかみ》に貼《は》ってあったのを、剥《は》がして懸物《かけもの》にしたのだね」
一幅ごとに残っている開閉《あけたて》の手摺《てずれ》の痕《あと》と、引手《ひきて》の取れた部分の白い型を、父は自分に指し示した。自分は広間の真中に立ってこの雄大な画《え》を描いた昔の日本人を尊敬する事を、父の御蔭《おかげ》でようやく知った。
二階から下りた時、父は玉《ぎょく》だの高麗焼《こうらいやき》だのの講釈をした。柿右衛門《かきえもん》と云う名前も聞かされた。一番下らないのはのんこうの茶碗であった。疲れた二人はついに表慶館を出た。館の前を掩《おお》うように聳《そび》えている蒼黒《あおぐろ》い一本の松の木を右に見て、綺麗《きれい》な小路《こみち》をのそのそ歩いた。それでも肝心《かんじん》の用事について、父は一言《ひとこと》も云わなかった。
渡辺崋山が自殺直前に書いた絵が展示されている。この絵は、夏目漱石の「こころ」の最後に出てくる。
『こころ』56
私が死のうと決心してから、もう十日以上になりますが、その大部分はあなたにこの長い自叙伝の一節を書き残すために使用されたものと思って下さい。始めはあなたに会って話をする気でいたのですが、書いてみると、かえってその方が自分を判然はっきり描えがき出す事ができたような心持がして嬉うれしいのです。私は酔興すいきょうに書くのではありません。私を生んだ私の過去は、人間の経験の一部分として、私より外ほかに誰も語り得るものはないのですから、それを偽いつわりなく書き残して置く私の努力は、人間を知る上において、あなたにとっても、外の人にとっても、徒労ではなかろうと思います。渡辺華山わたなべかざんは邯鄲かんたんという画えを描かくために、死期を一週間繰り延べたという話をつい先達せんだって聞きました。他ひとから見たら余計な事のようにも解釈できましょうが、当人にはまた当人相応の要求が心の中うちにあるのだからやむをえないともいわれるでしょう。私の努力も単にあなたに対する約束を果たすためばかりではありません。半なかば以上は自分自身の要求に動かされた結果なのです。
第3章 文学作品と美術 『草枕』『三四郎』『それから』『門』
草枕
冒頭は、
山路やまみちを登りながら、こう考えた。智ちに働けば角かどが立つ。情じょうに棹さおさせば流される。意地を通とおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。このあとに
住みにくさが高こうじると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟さとった時、詩が生れて、画えが出来る。
などと書いてあったとは覚えていない。読んだつもり読んでいない証拠。
ミレイのオフェリヤが引用されているという。
余はまた写生帖をあける。この景色は画えにもなる、詩にもなる。心のうちに花嫁の姿を浮べて、当時の様を想像して見てしたり顔に、
花の頃を越えてかしこし馬に嫁
と書きつける。不思議な事には衣装も髪も馬も桜もはっきりと目に映じたが、花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった。しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの面影おもかげが忽然と出て来て、高島田の下へすぽりとはまった。これは駄目だと、せっかくの図面を早速さっそく取り崩す。衣装も髪も馬も桜も一瞬間に心の道具立から奇麗に立ち退のいたが、オフェリヤの合掌して水の上を流れて行く姿だけは、朦朧と胸の底に残って、棕梠箒で煙を払うように、さっぱりしなかった。空に尾を曳ひく彗星すいせいの何となく妙な気になる。
残念ながらパネル展示。
長沢芦雪については、次のような引用があるとのことで
逡巡として曇り勝ちなる春の空を、もどかしとばかりに吹き払う山嵐の、思い切りよく通り抜けた前山の一角は、未練もなく晴れ尽して、老嫗の指さす方にさんがんと、あら削けずりの柱のごとく聳びえるのが天狗岩だそうだ。
余はまず天狗巌を眺ながめて、次に婆さんを眺めて、三度目には半々はんはんに両方を見比みくらべた。画家として余が頭のなかに存在する婆さんの顔は高砂の媼と、蘆雪のかいた山姥のみである。蘆雪の図を見たとき、理想の婆さんは物凄ものすごいものだと感じた。紅葉のなかか、寒い月の下に置くべきものと考えた。宝生の別会能を観るに及んで、なるほど老女にもこんな優しい表情があり得るものかと驚ろいた。あの面は定めて名人の刻んだものだろう。惜しい事に作者の名は聞き落したが、老人もこうあらわせば、豊かに、穏おだやかに、あたたかに見える。金屏にも、春風にも、あるは桜にもあしらって差し支かえない道具である。余は天狗岩よりは、腰をのして、手を翳ざして、遠く向うを指さしている、袖無し姿の婆さんを、春の山路の景物として恰好なものだと考えた。余が写生帖を取り上げて、今しばらくという途端とたんに、婆さんの姿勢は崩れた。
が展示されていた。
伊東若冲と黄檗の高泉和尚についての言及もあるとのこと、
仰向に寝ながら、偶然目を開けて見ると欄間に、朱塗の縁をとった額がかかっている。文字は寝ながらも竹影払階塵不動と明らかに読まれる。大徹という落款もたしかに見える。余は書においては皆無鑒識のない男だが、平生から、黄檗の高泉和尚の筆致ひっちを愛している。隠元も即非も木庵もそれぞれに面白味はあるが、高泉の字が一番蒼勁でしかも雅馴である。今この七字を見ると、筆のあたりから手の運び具合、どうしても高泉としか思われない。しかし現に大徹とあるからには別人だろう。ことによると黄檗に大徹という坊主がいたかも知れぬ。それにしては紙の色が非常に新しい。どうしても昨今のものとしか受け取れない。
横を向く。床とこにかかっている若冲の鶴の図が目につく。これは商売柄がらだけに、部屋に這入はいった時、すでに逸品と認めた。若冲の図は大抵精緻な彩色ものが多いが、この鶴は世間に気兼ねなしの一筆がきで、一本足ですらりと立った上に、卵形なりの胴がふわっと乗っかっている様子は、はなはだ吾意を得て、飄逸の趣おもむきは、長い嘴のさきまで籠もっている。床の隣りは違い棚を略して、普通の戸棚につづく。戸棚の中には何があるか分らない。
が展示されていた。
草枕を画題にした作品として、
などが展示されていた。
奈良国立博物館のHPにいくと、松岡映丘ほか 草枕絵がある。
HOME > アーカイブズ - 画像データベース > 画像情報
小さいが画像でてくる。全巻展示が見てみたい。
松岡正剛さんの千夜千冊の583夜にも草枕は取り上げられていて、上記のようなところを引用し、『草枕』はしだいに雅趣と奇趣を求めた話になっていく、と評している。
http://1000ya.isis.ne.jp/0583.html
三四郎
が展示されていた。三四郎では、ヴォラプチュアスvoluptous(色っぽい)な表情と表現されている。
女はこの句を冒頭に置いて会釈した。腰から上を例のとおり前へ浮かしたが、顔はけっして下げない。会釈しながら、三四郎を見つめている。女の咽喉のどが正面から見ると長く延びた。同時にその目が三四郎の眸ひとみに映った。
二、三日まえ三四郎は美学の教師からグルーズの絵を見せてもらった。その時美学の教師が、この人のかいた女の肖像はことごとくヴォラプチュアスな表情に富んでいると説明した。ヴォラプチュアス! 池の女のこの時の目つきを形容するにはこれよりほかに言葉がない。何か訴えている。艶なるあるものを訴えている。そうしてまさしく官能に訴えている。けれども官能の骨をとおして髄に徹する訴え方である。甘いものに堪たえうる程度をこえて、激しい刺激と変ずる訴え方である。甘いといわんよりは苦痛である。卑しくこびるのとはむろん違う。見られるもののほうがぜひこびたくなるほどに残酷な目つきである。しかもこの女にグルーズの絵と似たところは一つもない。目はグルーズのより半分も小さい。
も展示されていた。
「ちょっと御覧なさい」と美禰子が小さな声で言う。三四郎は及び腰になって、画帖の上へ顔を出した。美禰子の髪あたまで香水のにおいがする。
絵はマーメイドの図である。裸体の女の腰から下が魚になって、魚の胴がぐるりと腰を回って、向こう側に尾だけ出ている。女は長い髪を櫛くしですきながら、すき余ったのを手に受けながら、こっちを向いている。背景は広い海である。
「人魚マーメイド」
「人魚マーメイド」
頭をすりつけた二人は同じ事をささやいた。
「三四郎」に出てくる三井画伯のモデルは和田英作。原口画伯のモデルである黒田清輝とのこと。
というのが出展されている。三四郎で下記のように表現されているように確かにうまくない。
原口さんはこの時はじめて、黒い絵の方を向いた。野々宮さんはそのあいだぽかんとして同じ絵をながめていた。
「どうです。ベラスケスは。もっとも模写ですがね。しかもあまり上できではない」と原口がはじめて説明する。野々宮さんはなんにも言う必要がなくなった。
「どなたがお写しになったの」と女が聞いた。
「三井みついです。三井はもっとうまいんですがね。この絵はあまり感服できない」と一、二歩さがって見た。「どうも、原画が技巧の極点に達した人のものだから、うまくいかないね」
原口は首を曲げた。三四郎は原口の首を曲げたところを見ていた。
深見画伯のモデルは、浅井忠とのこと。三四郎で下記のように表現されている。
「じゃ、こうなさい。この奥の別室にね。深見さんの遺画があるから、それだけ見て、帰りに精養軒へいらっしゃい。先へ行って待っていますから」
「ありがとう」
「深見さんの水彩は普通の水彩のつもりで見ちゃいけませんよ。どこまでも深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になっていると、なかなかおもしろいところが出てきます」と注意して、原口は野々宮と出て行った。美禰子は礼を言ってその後影を見送った。二人は振り返らなかった。
女は歩をめぐらして、別室へはいった。男は一足あとから続いた。光線の乏しい暗い部屋である。細長い壁に一列にかかっている深見先生の遺画を見ると、なるほど原口さんの注意したごとくほとんど水彩ばかりである。三四郎が著しく感じたのは、その水彩の色が、どれもこれも薄くて、数が少なくって、対照に乏しくって、日向へでも出さないと引き立たないと思うほど地味にかいてあるという事である。その代り筆がちっとも滞っていない。ほとんど一気呵成に仕上げた趣がある。絵の具の下に鉛筆の輪郭が明らかに透いて見えるのでも、洒落な画風がわかる。人間などになると、細くて長くて、まるで殻竿からざおのようである。
が展示されていた。
それから
が展示されていた。それからでは、下記ように引用されている。
いつかの展覧会に青木と云ふ人が海の底に立つてゐる脊の高い女を画かいた。代助は多くの出品のうちで、あれ丈が好いい気持に出来てゐると思つた。つまり、自分もああ云ふ沈んだ落ち付いた情調に居りたかつたからである。
仇英、応挙は、次のように引用されている。それぞれ作品例が展示されていた。
父は斯う云ふ場合には、よく自分の好きな書画骨董の話を持ち出すのを常としてゐた。さうして気が向けば、いくらでも、蔵から出して来て、客の前まへに陳べたものである。父の御蔭おかげで、代助は多少斯道に好悪を有てる様になつてゐた。兄も同様の原因から、画家の名前位は心得てゐた。たゞし、此方は掛物の前まへに立つて、はあ仇英だね、はあ応挙だねと云ふ丈であつた。面白い顔もしないから、面白い様にも見えなかつた。それから真偽の鑑定の為に、虫眼鏡などを振り舞はさない所は、誠吾も代助も同じ事であつた。父の様に、こんな波は昔の人ひとは描かかないものだから、法にかなつてゐない抔といふ批評は、双方共に、未だ嘗て如何なる画に対しても加へた事はなかつた。
門
門には、こんな一節があるとのことで、
「宗さん、どうせ家じゃ使っていないんだから、なんなら持っておいでなすっちゃどうです。この頃はああいうものが、大変価が出たと云う話じゃありませんか」と云ったときは、実際それを持って帰る気になった。
納戸なんどから取り出して貰って、明るい所で眺めると、たしかに見覚えのある二枚折であった。下に萩、桔梗、芒、葛、女郎花を隙間なく描かいた上に、真丸な月を銀で出して、その横の空あいた所へ、野路や空月の中なる女郎花、其一と題してある。宗助は膝を突いて銀の色の黒く焦げた辺あたりから、葛の葉の風に裏を返している色の乾いた様から、大福ほどな大きな丸い朱の輪廓の中に、抱一と行書で書いた落款をつくづくと見て、父の生きている当時を憶い起さずにはいられなかった。
父は正月になると、きっとこの屏風びょうぶを薄暗い蔵くらの中から出して、玄関の仕切りに立てて、その前へ紫檀したんの角かくな名刺入を置いて、年賀を受けたものである。その時はめでたいからと云うので、客間の床とこには必ず虎の双幅そうふくを懸かけた。これは岸駒じゃない岸岱だと父が宗助に云って聞かせた事があるのを、宗助はいまだに記憶していた。この虎の画には墨が着いていた。虎が舌を出して谷の水を呑のんでいる鼻柱が少し汚されたのを、父は苛く気にして、宗助を見るたびに、御前ここへ墨を塗った事を覚えているか、これは御前の小さい時分の悪戯だぞと云って、おかしいような恨めしいような一種の表情をした。
宗助は屏風の前に畏こまって、自分が東京にいた昔の事を考えながら、
「叔母さん、じゃこの屏風はちょうだいして行きましょう」と云った。
「ああああ、御持ちなさいとも。何なら使に持たせて上げましょう」と叔母は好意から申し添えた。
が展示されていた。
は、最後の2週間の展示。
第4章 漱石と同時代美術
漱石が東京朝日新聞に書いた「文展と芸術」に登場する1912年の第6回文展の出品作とこれに対する漱石な批評が並んでいた。
漱石の批評はともかく、第6回文展は、傑作揃いだったということと、寺崎広業の瀟湘八景はうまいが工夫がない、横山大観 瀟湘八景は、着想が面白い、今村紫紅 も色彩が特徴ということでしょうか?
第5章 親交の画家たち
第6章 漱石自筆の作品 絵は素人では。字はうまい。
第7章 装幀と挿画 橋口五葉の作品が並ぶ。
と続いた。
みたから読むか