コラム(101): メディアの「言論の自由」に求められるもの
産経新聞の加藤達也氏の無罪判決が下されました。
12月18日付けの新聞各紙は、産経新聞前支局長の無罪判決を報じるとともに、「言論の自由が守られた」との一致した論評を掲載していました。
普段は不仲なマスコミ同士がこの論調だけは一致して、大合唱しているのです。
しかし、この判決は日韓両政府による外交協議によってもたらされた政治決着であったことを見過ごしてはなりません。
誰が勝利したのか?
判決文中には一部、言論の自由が論じられていましたが、それは言い訳として取ってつけた程度にすぎませんでした。むしろ今回の判決は、三権分立が確立された法治国家であるにもかかわらず、裁判所が韓国政府の介入を許したという異常性を問題にすべきです。
日本のマスコミは判決文中の「公的な関心事をめぐる名誉毀損部分では言論の自由が優位に立つべきだ」との部分に過剰に着目しています。マスコミはこの表現をいいことに、悪意ある嘘や捏造をも言論の自由の範囲内と見なそうとしているからです。
口実に使われる「言論の自由」
今年の1月7日、風刺画を掲載してきたフランスのシャルリー・エブド社が襲撃されました。イスラム教世界全体への侮蔑表現が事件を招いたのです。この時も、日本のマスコミは「言論の自由や表現の自由を重んずるフランスへの挑戦」として、悪意ある表現でも正当性があると表明しました。問題の本質を言論の自由にすりかえていたのです。
このようなメディアの風潮がまかり通ると日本でも、悪意ある言論が蔓延する可能性があります。
朝日新聞を筆頭とする反体制マスコミは、何を言ってもいいということで、これまで以上に政権に対する誹謗に近い批判を繰り出していく可能性があります。それも、嘘や名誉を毀損する記事が連発され、何を書いても言論の自由の範囲内として居直ることになるのです。
「言論の自由」に伴う義務とは
マスコミの報道には責任が伴います。マスコミは報道の基本方針に「中立、公正」を掲げて活動し、その影響が大きなものであるから公器と言われているのです。
しかし、マスコミ報道において、こうした基本方針に沿ったものはなかなか見あたりません。むしろ、マスコミによるヘイトスピーチと思われるほど、皮肉やからかい半分の記事、人の不幸を見て内心ほくそ笑んでいるような記事を目にします。それを読む人の心は不快になり、社会への不満を一層つのらせるばかりです。
社会に大きな影響を与える言論には、高い精神性がなくてはなりません。それこそが社会性のある公器としての義務なのです。
マスコミはいま一度、報道のあり方を自らに問い、「言論の自由」の意味を真摯に考えるべきだと考えます。
お問い合わせ先 akaminekaz@gmail.com
FBは https://www.facebook.com/akaminekaz です