赤峰和彦の 『 日本と国際社会の真相 』

すでに生起して戻ることのできない変化、重大な影響力をもつ変化でありながら一般には認識されていない変化について分析します。

三島由紀夫氏、自決後50年に思う コラム(343)

2020-11-25 08:52:27 | 政治見解



コラム(343):三島由紀夫氏、自決後50年に思う

昭和45年(1970年)11月25日は、三島由紀夫氏が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自決をするという大事件があった日です。あれから50年の歳月が流れました。


事件に至るまでの時代背景

当時の日本は高度経済成長下で、世相は「昭和元禄」と言われる奢侈安逸の真っただ中にありました。そんななかにあっても思想界はソ連製の社会主義イデオローギーの風が吹き荒れ、日本革命の前兆とも思える様相も示しておりました。もともと、安保反対運動もナショナリズムに起因する反米闘争だったのですが、いつの間にかインターナショナルの革命主義に取り込まれてしまい、革命運動こそ正義という風潮がまかりこしていた時代です。

なかでも、思想に最も影響されやすい学生たちは、既存の左翼政党から飛び出して学園や街頭で暴れ始めました。社会党からは社会主義青年同盟が、共産党からは共産主義者同盟や革命的共産主義者同盟が生まれ、彼らは学生運動をそれぞれ組織化、日本革命を夢見て国家体制への挑戦を始めました。思想が人を動かした典型例です。

しかし、彼らは1969年の東大安田講堂事件を境に「極左過激派にすぎない」と国民から総スカンを食らいはじめ、また、彼らも70年の安保闘争を境にますます先鋭化と内部分裂を繰り返していきました。

そんな折、「反革命・天皇護持」を掲げて、左傾化する時代風潮に反逆したのが三島氏でした。氏は、自衛隊に憲法改正のためのクーデターを促したのち、自決しました。

三島事件の衝撃は極めて大きいものでした。しかし、既成の政治勢力の反発はすさまじく、憲法改正を党是としていた自民党でさえ氏の行動を暴挙と指弾、他の政党もメディアも世論もこれに追随しました。現状の変化を拒絶したのです。


左に大きく振れた振り子を元に戻す

三島氏の決起に対し衝撃を受け、理解を示したのが三島氏の敵対していたはずの全共闘の人びとと、少数の右派につらなる人たちでした。

大学一年生だった筆者は学内の全共闘の放送を通じて事件を知りましたし、東大や京大の全共闘は追悼の垂れ幕で弔意を示したと言います。また、全共闘のイデオローグたちは「悪しき味方よりも果敢なる敵の死はいっそう悲しい」(高橋和巳)、「おまえはなにをしてきたのか!」(吉本隆明)と語るほどの衝撃だったようです。

彼らが衝撃を受けた理由は、三島氏が国のために命を捧げたことに尽きます。左翼にとって戦後否定し続けてきた「愛国心」という国家のために死ぬ行為を目の当たりにして周章狼狽したようです。

この時を契機に全共闘運動は衰退をはじめたと言っても過言ではありません。イデオローグの周辺に群がっていたファッション左翼も、うたかたのように消えていきました。いま彼らの姿は、朝日新聞周辺でしか見ることができなくなりました。結局、氏は、戦後大きく左に揺れていた振り子を正常の位置に取り戻すショック療法の役目を自らかってでたのではないかと思えるのです。


右派の限界

当然、右派にも大きな刺激を与えましたが、時代を右旋回させるには力が及びませんでした。なぜなら、三島氏の後に続く思想家がでなかったからです。石原慎太郎氏の名前を挙げる人もいるかもしれませんが、以前から彼は三島氏のエピゴーネン(亜流)に過ぎないという評価です。

右派に思想家が出なかった理由は、その存在が左派に対するアンチから始まったことに起因します。右派が、革命に対して反革命、天皇制打倒に対して天皇護持を訴えるとき一番困ったのは左派と論争できる決定的な思想がないことでした。そのため、右派は必然的に戦前の思想に回帰し、すがらざるをえなかったわけです。

戦前の思想には優れた思想もありますが、さまざまな夾雑物で汚れているものもあります。しかし、殆どの右派がその選別をしないまま左派に対抗する思想として用いましたので、時代感覚から狂ってしまいます。

たとえば、三島事件を裁判所は嘱託殺人、傷害、監禁致傷などの容疑で裁こうとしましたが、右派は、三島氏らの行為が憲法改正のために立ち上がった「義挙」であると主張し、そのため「11・25義挙正当裁判要求闘争」を起こしまた。筆者も福岡から上京し、学生服に鉢巻をしめて寒風吹きすさぶ東京地裁前に数日間泊まり込んだ記憶がありますが、今思えば、これでは世間の共感を得ることはできなかったというのがよくわかります。

当時、右派学生が既成右翼の古臭い考え方で指導を受けていたことが原因です。なお、その一年後には既成右翼と縁を切りましたが、戦前の思想に頼らざるをえない右派の限界がここにあります。今でもSNS上でネトウヨと言われている人は、自民党サポーターズクラブと左派嫌いの人びとによって構成されていますが、彼らの主張には、戦前の使い古されて役に立たなくなった思想に依拠していることも散見することができます。


三島氏の自決の真の意味

改めて、三島事件とは、日本人に日本人たることを覚醒させた歴史的な大事件であり、戦後日本の思想的分岐点であったと思います。しかし、氏の没後50年たっても憲法改正は未だままならず、三島氏の期待した日本像とはいまだ実現していません。

ただ、平成の御代替わりから、日本人の天皇観、国家観に左派のバイアスがかからなくなり、よほどの反国家意識の塊でない限り、すなおに国旗を掲揚し君が代を歌い天皇陛下の真心にふれて感動する、古来から培ってきた日本人の感性の蘇りを感じるようになりました。また、愛国心という考え方も、人びとの心を一体にする美しい感情に昇華して、自然と湧きあがる気持ちを素直に発露できる時代になったと思います。

結局、このことこそが、三島氏の心の底で期待していたことではないかと思います。その意味で、三島事件とは左旋回しつづける日本に歯止めをかける中和剤の役目を果たしただけでなく、右でも、左でもなく、誰もが素直に日本を愛することの素晴らしさを実感できるようなショック療法を試みたのだと思えてなりません。



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