土岐明智氏の系図としては「明智系図の歴史捜査1」に書いたA系の系図を研究すべきです。前回はA2寛永諸家系図伝・土岐系図が最も信憑性が高い系図であることを説明しました。
★ 明智系図の歴史捜査3:土岐明智氏の公式系図
この系図と並んで信憑性が高い系図がもうひとつあります。A1尊卑分脈・明智系図です。『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』は南北朝時代から室町時代初期に完成したもので、編者は公家の洞院(とういん)公定(きんさだ)という人物です。
主に永和三年(1377)から応永二年(1395)にかけて編纂されたものですが、公定死後も洞院家によって編集・改変・訂正・追加が行なわれました。自分や一族の出自を飾る目的で作られたものではなく、信頼のおける第三者機関が作ったということで信憑性が高いといえます。
これに記載されている系図はA2寛永諸家系図伝・土岐系図のものと同様に頼基から始まっていますが途中の頼秀の次から全く別系統のものとなっています。
頼貞-頼基-頼重-(・・)-頼秀-頼高-光高-光重-光兼
政宣
この系図は頼重から頼秀の間が連続していません。おそらく頼重の代に京都を離れて美濃明智荘に住み着き、その子・頼篤の代には洞院公定が『尊卑文脈』の編纂を終えたため、京都の洞院家には情報がつかめなくなったのでしょう。一旦途切れた後、頼秀か頼高の代に幕府奉公衆となって京都に住むようになったので再び洞院家が情報をつかめるようになって復活したわけです。
頼秀はA2の系図に頼弘の父として書かれていますので、頼弘・頼高は兄弟で、一方が美濃に残り、他方が京都に上ったのです。前回書いた「ミッシング・ブランチ」がこれです。
この系図に書かれている光重の弟・政宣は別の史料でその存在が確認できます。足利幕府の役人名簿である番帳と公家の三条西実隆(さねたか)の書いた日記『実隆公記』や連歌の記録『連歌総目録』に、政宣の父とみられる玄宣(げんせん)と共に名前がみられます。
玄宣が光高と同一人物とする決定的な証拠はなく、光高の兄弟なのかもしれませんが、玄宣も政宣も幕府奉公衆で連歌に長けていたことは確かです。
光秀が幕府奉公衆の細川藤孝に仕えていたこと、連歌の素養があったこと、名前に通字の「光」が付くことから考えると、この系統につながっていた可能性が高いように思われます。光兼が光秀の父か祖父であった可能性もあると思います。
>>>つづく:土岐明智氏系図の復元へ
**************************************
『本能寺の変 四二七年目の真実』のあらすじはこちらをご覧ください。
また、読者の書評はこちらです。
>>>トップページ
>>>『本能寺の変 四二七年目の真実』出版の思い
【参考ページ】
残念ながら本能寺の変研究は未だに豊臣秀吉神話、高柳光寿神話の闇の中に彷徨っているようです。「軍記物依存症の三面記事史観」とでもいうべき状況です。下記のページもご覧ください。
★ 本能寺の変の定説は打破された!
★ 本能寺の変四国説を嗤う
★ SEが歴史を捜査したら本能寺の変が解けた
★ 土岐氏とは何だ!
★ 土岐氏を知らずして本能寺の変は語れない
★ 長宗我部氏を知らずして本能寺の変は語れない
★ 初公開!明智光秀家中法度
★ 明智系図の歴史捜査3:土岐明智氏の公式系図
この系図と並んで信憑性が高い系図がもうひとつあります。A1尊卑分脈・明智系図です。『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』は南北朝時代から室町時代初期に完成したもので、編者は公家の洞院(とういん)公定(きんさだ)という人物です。
主に永和三年(1377)から応永二年(1395)にかけて編纂されたものですが、公定死後も洞院家によって編集・改変・訂正・追加が行なわれました。自分や一族の出自を飾る目的で作られたものではなく、信頼のおける第三者機関が作ったということで信憑性が高いといえます。
これに記載されている系図はA2寛永諸家系図伝・土岐系図のものと同様に頼基から始まっていますが途中の頼秀の次から全く別系統のものとなっています。
頼貞-頼基-頼重-(・・)-頼秀-頼高-光高-光重-光兼
政宣
この系図は頼重から頼秀の間が連続していません。おそらく頼重の代に京都を離れて美濃明智荘に住み着き、その子・頼篤の代には洞院公定が『尊卑文脈』の編纂を終えたため、京都の洞院家には情報がつかめなくなったのでしょう。一旦途切れた後、頼秀か頼高の代に幕府奉公衆となって京都に住むようになったので再び洞院家が情報をつかめるようになって復活したわけです。
頼秀はA2の系図に頼弘の父として書かれていますので、頼弘・頼高は兄弟で、一方が美濃に残り、他方が京都に上ったのです。前回書いた「ミッシング・ブランチ」がこれです。
この系図に書かれている光重の弟・政宣は別の史料でその存在が確認できます。足利幕府の役人名簿である番帳と公家の三条西実隆(さねたか)の書いた日記『実隆公記』や連歌の記録『連歌総目録』に、政宣の父とみられる玄宣(げんせん)と共に名前がみられます。
玄宣が光高と同一人物とする決定的な証拠はなく、光高の兄弟なのかもしれませんが、玄宣も政宣も幕府奉公衆で連歌に長けていたことは確かです。
光秀が幕府奉公衆の細川藤孝に仕えていたこと、連歌の素養があったこと、名前に通字の「光」が付くことから考えると、この系統につながっていた可能性が高いように思われます。光兼が光秀の父か祖父であった可能性もあると思います。
>>>つづく:土岐明智氏系図の復元へ
**************************************
『本能寺の変 四二七年目の真実』のあらすじはこちらをご覧ください。
また、読者の書評はこちらです。
>>>トップページ
>>>『本能寺の変 四二七年目の真実』出版の思い
本能寺の変 四二七年目の真実明智 憲三郎プレジデント社このアイテムの詳細を見る |
【参考ページ】
残念ながら本能寺の変研究は未だに豊臣秀吉神話、高柳光寿神話の闇の中に彷徨っているようです。「軍記物依存症の三面記事史観」とでもいうべき状況です。下記のページもご覧ください。
★ 本能寺の変の定説は打破された!
★ 本能寺の変四国説を嗤う
★ SEが歴史を捜査したら本能寺の変が解けた
★ 土岐氏とは何だ!
★ 土岐氏を知らずして本能寺の変は語れない
★ 長宗我部氏を知らずして本能寺の変は語れない
★ 初公開!明智光秀家中法度