「明智系図はどれも信用できない」と高柳光寿氏が『明智光秀』に書いたことにより、明智系図研究は完全に停滞してしまいました。ところが、様々ある明智系図の中には信用度がピンからキリまで存在するのです。前2回はキリについて述べましたが、今回はピンについて述べます。
★ 明智系図の歴史捜査1:ここにも明智軍記汚染
★ 明智系図の歴史捜査2:明智軍記汚染の実態
徳川家康の家臣に菅沼定政と名乗る人物がいました。定政は土岐明智氏の一族で天文二十年(1551)に美濃で生まれました。翌年、斎藤道三が美濃守護土岐頼芸を追放した際の戦いで定政の父・明智定明は討死し、二歳だった定政は三河に逃れました。
そして母の弟・菅沼定仙(さだのり)の養子となり、十四歳のとき家康に仕えて菅沼藤蔵(とうぞう)と名乗り家康に近侍することになりました。定政は姉川の戦い、小牧・長久手の戦い、小田原征伐などで活躍し武名を高め、文禄二年(1593)に土岐姓への復姓を命じられて土岐山城守と名乗ったのです(『寛永諸家系図伝』)。
家康は土岐明智氏を復活させると同時に、明智姓ではなく土岐姓を名乗らせました。このことは単に土岐明智氏が復活したというだけではなく、明智氏が土岐氏の正統を継承したことを意味します。家康によって光秀が切望した明智氏による土岐氏再興は実現していたのです。
その後、定政の系統は上野国沼田藩主となって明治時代に至り、明治政府から華族へ列せられています。このように土岐明智氏が存続していることを知る人はほとんどいないのではないでしょうか。
★ 土岐氏とは何だ!
この上野沼田藩土岐家の系図が「明智系図の歴史捜査1」に書いたA2寛永諸家系図伝・土岐系図です。
幕府が寛永十八年(1641)から二十年にかけて編纂した『寛永諸家系図伝』に収録されたものです。それによると初代美濃守護土岐頼貞の子・頼基が明智氏の祖であり、その子・頼重が明智の里に住んで明智と号したと書かれています。
定政は頼基から数えて十二代にあたります。頼基の系統だけを抜き書きすると次の通りです。
頼貞-頼基-頼重-頼篤-國篤-頼秋-頼秀-頼弘-頼定-頼尚-頼明-定明-定政
この系図は定政の孫・土岐頼行が出羽上山藩主のときに作成されたものですが、その後、寛政年間(1789~1801)に編纂されたA3寛政重修諸家譜・土岐系図、幕末・明治初期に編纂されたA4系図纂要・土岐上野沼田系図へと沼田藩土岐家によって書き継がれました。
したがって、土岐明智氏の系図としては最も権威もあり信憑性の高いものといえます。
この系図には残念ながら光秀が書かれていません。謀反人・光秀と関係があることを伏せたかったのか、系統が違っていて情報が得られなかったか、どちらかでしょう。この系図のどこかに光秀につながる分岐があったはずなのです。そのミッシング・ブランチを次回から推理してみましょう。
>>>つづく:別系統の土岐明智氏系図へ
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『本能寺の変 四二七年目の真実』のあらすじはこちらをご覧ください。
また、読者の書評はこちらです。
>>>トップページ
>>>『本能寺の変 四二七年目の真実』出版の思い
【参考ページ】
残念ながら本能寺の変研究は未だに豊臣秀吉神話、高柳光寿神話の闇の中に彷徨っているようです。「軍記物依存症の三面記事史観」とでもいうべき状況です。下記のページもご覧ください。
★ 本能寺の変の定説は打破された!
★ 本能寺の変四国説を嗤う
★ SEが歴史を捜査したら本能寺の変が解けた
★ 土岐氏とは何だ!
★ 土岐氏を知らずして本能寺の変は語れない
★ 長宗我部氏を知らずして本能寺の変は語れない
★ 初公開!明智光秀家中法度
★ 明智系図の歴史捜査1:ここにも明智軍記汚染
★ 明智系図の歴史捜査2:明智軍記汚染の実態
徳川家康の家臣に菅沼定政と名乗る人物がいました。定政は土岐明智氏の一族で天文二十年(1551)に美濃で生まれました。翌年、斎藤道三が美濃守護土岐頼芸を追放した際の戦いで定政の父・明智定明は討死し、二歳だった定政は三河に逃れました。
そして母の弟・菅沼定仙(さだのり)の養子となり、十四歳のとき家康に仕えて菅沼藤蔵(とうぞう)と名乗り家康に近侍することになりました。定政は姉川の戦い、小牧・長久手の戦い、小田原征伐などで活躍し武名を高め、文禄二年(1593)に土岐姓への復姓を命じられて土岐山城守と名乗ったのです(『寛永諸家系図伝』)。
家康は土岐明智氏を復活させると同時に、明智姓ではなく土岐姓を名乗らせました。このことは単に土岐明智氏が復活したというだけではなく、明智氏が土岐氏の正統を継承したことを意味します。家康によって光秀が切望した明智氏による土岐氏再興は実現していたのです。
その後、定政の系統は上野国沼田藩主となって明治時代に至り、明治政府から華族へ列せられています。このように土岐明智氏が存続していることを知る人はほとんどいないのではないでしょうか。
★ 土岐氏とは何だ!
この上野沼田藩土岐家の系図が「明智系図の歴史捜査1」に書いたA2寛永諸家系図伝・土岐系図です。
幕府が寛永十八年(1641)から二十年にかけて編纂した『寛永諸家系図伝』に収録されたものです。それによると初代美濃守護土岐頼貞の子・頼基が明智氏の祖であり、その子・頼重が明智の里に住んで明智と号したと書かれています。
定政は頼基から数えて十二代にあたります。頼基の系統だけを抜き書きすると次の通りです。
頼貞-頼基-頼重-頼篤-國篤-頼秋-頼秀-頼弘-頼定-頼尚-頼明-定明-定政
この系図は定政の孫・土岐頼行が出羽上山藩主のときに作成されたものですが、その後、寛政年間(1789~1801)に編纂されたA3寛政重修諸家譜・土岐系図、幕末・明治初期に編纂されたA4系図纂要・土岐上野沼田系図へと沼田藩土岐家によって書き継がれました。
したがって、土岐明智氏の系図としては最も権威もあり信憑性の高いものといえます。
この系図には残念ながら光秀が書かれていません。謀反人・光秀と関係があることを伏せたかったのか、系統が違っていて情報が得られなかったか、どちらかでしょう。この系図のどこかに光秀につながる分岐があったはずなのです。そのミッシング・ブランチを次回から推理してみましょう。
>>>つづく:別系統の土岐明智氏系図へ
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残念ながら本能寺の変研究は未だに豊臣秀吉神話、高柳光寿神話の闇の中に彷徨っているようです。「軍記物依存症の三面記事史観」とでもいうべき状況です。下記のページもご覧ください。
★ 本能寺の変の定説は打破された!
★ 本能寺の変四国説を嗤う
★ SEが歴史を捜査したら本能寺の変が解けた
★ 土岐氏とは何だ!
★ 土岐氏を知らずして本能寺の変は語れない
★ 長宗我部氏を知らずして本能寺の変は語れない
★ 初公開!明智光秀家中法度