本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
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明智系図の歴史捜査2:明智軍記汚染の実態

2013年10月16日 | 歴史捜査レポート
 前回は明智系図の分類と、その中でのB系の頼清・頼兼系が『明智軍記』に汚染されたものだという捜査結果をご説明しました。
 ★ 明智系図の歴史捜査1:ここにも明智軍記汚染

 今回はもう少し詳しくB系の各系図と『明智軍記』の記述を比較して、汚染の実態を明らかにしてみましょう。
 『明智軍記』には光秀の家系について以下のように記述されています。
【明智軍記要約】
 明智兵庫助光安・入道宗宿は土岐の庶流明智下野守頼兼の七代の後胤十兵衛尉光継の次男なり。兄光綱早世の後、東美濃明智という所に在城した。斎藤竜興の軍勢に攻められて、弟次右衛門光久と討ち死にした。その際、甥の十兵衛尉光秀に息子弥平次光春、甥の次郎光忠を託して、城から逃した。

 この『明智軍記』の記述を忠実に系図にしたのがB2系図纂要・明智系図です。この系図は明智下野守頼兼を頼清の子供としてつないでいます。ところが、A系では頼兼は頼清の弟として出てきます。
 おそらく、実在の頼兼につないでしまうと、その末裔が謀反人・光秀の家系として迷惑を被ることになると配慮したか、末裔からクレームをつけられるのを避けるために、同名の頼兼を頼清の子に作り込んだのです。なお、A系の系図で頼清の子に頼兼を書いたものはありません。
 一方、「明智軍記を見て書いた」と断り書きのあるB5土佐諸家系図は頼兼を頼清の子・頼康の子としてつないでいます。発想はB2と同じで実在の人物につなぐのを避けたのでしょう。

 このB2系図纂要・明智系図をさらに発展させて作りこんだのが、B4明智氏一族宮城家相伝です。
 『明智軍記』には頼兼から光継までの間の六代の名が記されていないためB2にも書かれていないのですが、B4ではこの六代の名前がすべて埋まっており、頼兼-頼重-頼篤-國篤-頼秋-頼秀-頼弘-光継となっています。
 この頼重から頼弘までの6人がどこから持ってこられたかというと、A2寛永諸家系図伝・土岐系図からです。A2では頼貞-頼基の次に頼重以下がつながっているのですが、この頼重以下を引き抜いてもってきたのです。
 なぜそのようなことをしたかといえば、この系図の作者は自分の家系を権威付けたかったのです。このため、実在する家系の系図A2に『明智軍記』の系図をつなぎ、そこに自分につながる系図を書き加えたのです。A2の系図こそ、明治期まで上野沼田藩土岐氏として存続した家系の正式な系図なのです。

 以上、見てきた系図に書かれている光秀の一族、光継・光綱・光安・光春・光忠などは全て『明智軍記』の創作です。ところがこれが歴史雑誌や本にしばしば書かれて通説となっています。出典が「系図纂要」だとか「明智氏一族宮城家相伝」だとか書かれていると騙されてしまいますが、出典は悪書として名高いあの『明智軍記』なのです。光秀の祖父に光継、父に光綱、叔父に光安・光久などと書かれた雑誌・本があったら、その著者は軍記物に依存していると思ってください。

 >>>つづく:土岐明智氏の公式系図へ

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 『本能寺の変 四二七年目の真実』のあらすじはこちらをご覧ください。
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本能寺の変 四二七年目の真実
明智 憲三郎
プレジデント社

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【参考ページ】
 残念ながら本能寺の変研究は未だに豊臣秀吉神話高柳光寿神話の闇の中に彷徨っているようです。「軍記物依存症三面記事史観」とでもいうべき状況です。下記のページもご覧ください。
 ★ 本能寺の変の定説は打破された
 ★ 本能寺の変四国説を嗤う
 ★ SEが歴史を捜査したら本能寺の変が解けた
 ★ 土岐氏とは何だ
 ★ 土岐氏を知らずして本能寺の変は語れない
 ★ 長宗我部氏を知らずして本能寺の変は語れない
 ★ 初公開!明智光秀家中法度


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