本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

美濃源氏フォーラム:明智光秀公シンポジウム

2010年09月19日 | 427年目からの挑戦
【2010年9月19日追記】
 昨日、「明智光秀公シンポジウム」に参加してきました。
 岐阜県瑞浪(みずなみ)は暑いだろうと覚悟して行ったのですが意外に涼しくて助かりました。三連休の初日にもかかわらず60名ほどの方々が熱心に私の1時間半の基調講演を聴いてくださり、7グループに分かれて60分の討議と60分の発表を行いました。
 私の基調講演では「歴史捜査」を光秀前半生の研究に適用するとどうなったかをお話しました。参加者の方々が私と同じ情報源で検討できるように証拠となる史料をコピー配布しましたので、講演資料としてはかなり充実したものになりました。
 東美濃の明智城落城の際に逃げて、諸国放浪の後に越前朝倉義景に仕官した話は『明智軍記』が創作したものに過ぎないことを説明の後に、信憑性ある史料から復元すると細川藤孝の中間(ちゅうげん)だったのが、足利義輝の暗殺、義昭の近江脱出・幕府継承宣言の際に足軽衆に取り立てられた、といった拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』に書いたお話をしました。今回の新味は光秀の祖父・父の候補者(つまり光秀の系図)と足利義澄・義晴・義輝及び朽木氏の動静との関連調査の必要性を提示したことです。これについては追ってブログに書くつもりでおりますので、ご期待ください。
 参加者の方々の討議結果をお聞きしてあらためて感じたのは、「う~ん、やっぱり『明智軍記』の話が染み込んでいる!」ということです。『明智軍記』を元に司馬遼太郎が『国盗り物語』を書いてベストセラーにし、さらにそれを原作にしてNHKが大河ドラマにした影響が実に大きいです。かなりの方々が『国盗り物語』のストーリーを史実として思い込んでいらっしゃるのです。
 以前より、「高柳光壽恐るべし!」、「NHK大河ドラマ恐るべし!」とは思っていましたが、今回は「司馬遼太郎恐るべし!」でした。日本人の歴史観は司馬史観に支配されているのでは?!

【高柳光壽恐るべしシリーズ】
   定説の根拠を斬る!「中国大返し」
   定説の根拠を斬る!「安土城放火犯」
   定説の根拠を斬る!「岡田以蔵と毒饅頭」
   定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」
   定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(続き)
   定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(最終回)
   定説の根拠を斬る!「朝倉義景仕官」
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その2
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その3
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その4 

【2010年9月4日追記】
 9月18日(土)に岐阜県瑞浪市で開催される「明智光秀公シンポジウム」の基調講演「明智光秀公の前半生」で使用する資料の準備が整いました。
 今回のシンポジウムは謎となっている光秀の前半生を解明しようというものですので、かなり光秀研究に熱の入った方々が参加されるのではないかと思います。
 私の基調講演は拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』(プレジデント社)に書いたことがベースになりますが、昨年3月の拙著出版後に深めた研究成果もご披露いたします。
 拙著では光秀の前半生について通説を完全否定するとともに、足利幕府の役人の家系を洗う必要性を述べました。今回の講演では、これをさらに深めて光秀の家系、そしてそれにかかわる重要参考人について言及いたします。通説とは全く異なる光秀の前半生が明らかになります。是非、「歴史捜査」がどのようなものかを実体験していただければと思います。
(瑞浪は猛暑かと心配ですが)
 ★ 「明智光秀公シンポジウム」参加者募集
    -あなたが解き明かす、謎の前半生-
 (左側の「22年度行事案内」から表題のページへお進みください)

【2010年8月15日記事】
 土岐氏の研究団体である美濃源氏フォーラムのシンポジウムが9月に開催されます。通説とは異なる明智光秀の前半生を探るシンポジウムで私が基調講演をさせていただきます。ご案内は下記のとおりですので、ご関心のある方は是非ご参加ください。
 なお、詳細及び申込は美濃源氏フォーラム事務局へお願いいたします。
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「明智光秀公シンポジウム」参加者募集
-あなたが解き明かす、謎の前半生-

 美濃源氏土岐氏一族の明智光秀公は、どこで産まれたのか ? 明智・可児・美山・瑞浪 ?
そして、居城と居館がどこにあったのか、深い謎のベールに包まれてきました。
また、明智城が落ちた後に越前へ逃げ、朝倉氏に仕官した後には織田信長と足利義昭を斡旋等、
土岐明智氏が幕府奉公衆であったことや、美濃守護土岐頼武へ朝倉孝景の妹が嫁ぐなど、密接な関係が存在したことが、明智光秀公伝説の前半世に大きな影を落としているようです。
 今回、美濃源氏フォーラムが20周年を迎える中で、土岐氏一族の明智光秀公の前半世について参加者とともに考える場所を用意しましたので、是非ともご参加頂き「あなたの御意見」をお聞かせ下さい。
 さあ挑戦しましょう、戦国時代最大と言われる謎の解明へ、光秀公の子孫と共に ! ! !

開 催 要 項
開催日時 平成22年9月18日(土) 13時00分開演(12時開場17時閉会)
開催場所 瑞浪市総合文化センター3F講堂
基調講演 明智憲三郎氏 明智光秀公後裔
演   題 「明智光秀公の前半生」
意見交換 グループごとに御意見を伺います
団体発表 あらかじめ決められたグループ長が発表
会   費 1000円 資料代 (当日会費1500円)
募集人数 100名
主   催 美濃源氏フォーラム事務局本部 
http://www14.ocn.ne.jp/~bureyko/index.html


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2 コメント

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同感です (明智憲三郎)
2010-09-21 22:17:10
 おっしゃる通りです。奉公衆の名簿に名前が書かれているのは幕府の役人の一部のようです。たとえば、足利将軍の義晴、義輝が京都を逃れて近江朽木谷の朽木氏を頼っていますが、1400年代の幕府の名簿に朽木氏の名前はありませんし、義輝の名簿には末弟の輝孝の名前しかありません。義輝の弟の義昭の名簿には輝孝の名前はなくて兄の藤綱・成綱の名前があります。
 このあたりの幕府の役人の奉公の仕組みは極めて興味深いですし、光秀と足利将軍との関係を探る上でも重要なテーマだと思います。
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奉公の実態に興味あり (まきうす)
2010-09-06 05:49:51
こんにちは。
光秀公の前半生には興味があります。
背景として、当時の「奉公」のあり方がどのようなものであったのかがとても重要なように思われます。
秋山哲雄氏の『都市鎌倉の中世史-吾妻鏡の舞台と主役たち-』(吉川弘文館/2010)に拠れば、
御家人は常に鎌倉に常駐しているわけではなく、親兄弟で、鎌倉駐在、所領在住、京在番と分担していたようです。
鑑みるに、室町御所での「奉公衆」勤務と「土岐桔梗一揆」という後背地は光秀公の半生においては重要な関係があったのではないかと拝察いたします。
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