坂本龍馬は明智光秀の娘婿・明智秀満の子孫という話があるようですが、真偽は今ひとつはっきりしていません。
★ Wikipedia「坂本龍馬」記事
私はその可能性は高いのではないかとみています。その理由は次の通りです。
①光秀の一族郎党はかなりの人数が土佐に逃れている。
このことは拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』にも書きましたが、長宗我部元親の正室の兄であり光秀と同族の土岐氏であり、かつ光秀家臣だった石谷頼辰(いしがい・よりとき)とその家族、頼辰の実弟で光秀重臣の斎藤利三の家族が土佐に逃れたことは記録に残っています。
また、イエズス会宣教師フロイスがイエズス会総会長に出した報告書には坂本城落城の直前にかなりの人達が脱出したとも書かれています。
長宗我部元親と光秀との関係を考えると、あらかじめ脱出ルートを確保してあって、光秀の一族郎党が組織的に土佐へ脱出したものと考えられます。元親と光秀との関係についての詳細は拙著に書きましたが、その一端は下記のページにも書きましたのでご参照ください。
★ 長宗我部元親と明智光秀との関係を暴く
②坂本城にちなんだ姓を用い、家紋に桔梗を入れていた。
★ 坂本龍馬と明智光秀
③自分の起業した貿易会社に光秀の丹波の居城にちなんだ「亀山」社中と命名している。
坂本龍馬の先祖が明智秀満かどうかの捜査はもう少し情報を集めてからにすることにして、ここでは琵琶湖沿いの近江坂本から四国の太平洋側の土佐(現在の高知県)までどのようにして脱出できたのかを捜査してみたいと思います。まだ誰も試みたことのない日本史研究での初の試みです。
現代の地図で見ると最短コースは滋賀県から京都・大阪を通って淡路島を経由し、徳島県から高知県に入るルートです。別のコースとしては大阪府から紀伊半島に回って、和歌山県から紀伊水道を渡って徳島県経由で高知県に入るルートと大阪府から兵庫県・岡山県へ回り、瀬戸内海を渡って香川県・徳島県を経て高知県に入るルートがあります。
こうして見るとかなりの長旅です。大人数でぞろぞろ歩いていたら怪しまれて捕まる危険がかなり高かったはずです。しかも、淡路島までは途中全て敵地です。当然、秀吉方の軍勢の落人狩りの目も厳しかったでしょう。安全を考えれば、このルートは避けたのではないでしょうか。
大阪方面に出るのは避けて、坂本から光秀の領地だった丹波へ一旦出て、そこから南下するルートも考えられますが、それでも結局敵地の兵庫県へ出てきてしまうことになります。
もっと安全を考えて、丹波からさらに西に向かって毛利領へ出たのでしょうか。毛利領であれば明智一族を敵視はしていないのではるかに安全だったでしょう。現に明智一族として知られる女流日本画家の内田青虹(せいこう)さんの先祖は山口県に逃れてきたと伝えられています。
★ 内田青虹の世界
拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』にも書きましたが、香川県にも光秀の子供が淡路島経由で徳島県に逃れてきたと伝えられている家系がありますので、一旦毛利領に逃れてから各地に散った人々がいたと考えられます。どうも安全性から考えるとこのルートの可能性が高いように思えます。本能寺の変直後であれば香川県の一部を除き、淡路島も含めて四国は長宗我部氏の勢力下にありましたので、丹波⇒毛利領⇒四国のルートであれば敵地を通らずに済みます。
そして、実はもうひとつ、もっと安全なルートがありました。それについては後編をお楽しみに!
<<続き>>
【お知らせ】
本ブログは『本能寺の変 四二七年目の真実』著者のブログです。通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。
★ このブログの説明のページ
★ このブログの目次(サイトマップ)
★ Wikipedia「坂本龍馬」記事
私はその可能性は高いのではないかとみています。その理由は次の通りです。
①光秀の一族郎党はかなりの人数が土佐に逃れている。
このことは拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』にも書きましたが、長宗我部元親の正室の兄であり光秀と同族の土岐氏であり、かつ光秀家臣だった石谷頼辰(いしがい・よりとき)とその家族、頼辰の実弟で光秀重臣の斎藤利三の家族が土佐に逃れたことは記録に残っています。
また、イエズス会宣教師フロイスがイエズス会総会長に出した報告書には坂本城落城の直前にかなりの人達が脱出したとも書かれています。
長宗我部元親と光秀との関係を考えると、あらかじめ脱出ルートを確保してあって、光秀の一族郎党が組織的に土佐へ脱出したものと考えられます。元親と光秀との関係についての詳細は拙著に書きましたが、その一端は下記のページにも書きましたのでご参照ください。
★ 長宗我部元親と明智光秀との関係を暴く
②坂本城にちなんだ姓を用い、家紋に桔梗を入れていた。
★ 坂本龍馬と明智光秀
③自分の起業した貿易会社に光秀の丹波の居城にちなんだ「亀山」社中と命名している。
坂本龍馬の先祖が明智秀満かどうかの捜査はもう少し情報を集めてからにすることにして、ここでは琵琶湖沿いの近江坂本から四国の太平洋側の土佐(現在の高知県)までどのようにして脱出できたのかを捜査してみたいと思います。まだ誰も試みたことのない日本史研究での初の試みです。
現代の地図で見ると最短コースは滋賀県から京都・大阪を通って淡路島を経由し、徳島県から高知県に入るルートです。別のコースとしては大阪府から紀伊半島に回って、和歌山県から紀伊水道を渡って徳島県経由で高知県に入るルートと大阪府から兵庫県・岡山県へ回り、瀬戸内海を渡って香川県・徳島県を経て高知県に入るルートがあります。
こうして見るとかなりの長旅です。大人数でぞろぞろ歩いていたら怪しまれて捕まる危険がかなり高かったはずです。しかも、淡路島までは途中全て敵地です。当然、秀吉方の軍勢の落人狩りの目も厳しかったでしょう。安全を考えれば、このルートは避けたのではないでしょうか。
大阪方面に出るのは避けて、坂本から光秀の領地だった丹波へ一旦出て、そこから南下するルートも考えられますが、それでも結局敵地の兵庫県へ出てきてしまうことになります。
もっと安全を考えて、丹波からさらに西に向かって毛利領へ出たのでしょうか。毛利領であれば明智一族を敵視はしていないのではるかに安全だったでしょう。現に明智一族として知られる女流日本画家の内田青虹(せいこう)さんの先祖は山口県に逃れてきたと伝えられています。
★ 内田青虹の世界
拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』にも書きましたが、香川県にも光秀の子供が淡路島経由で徳島県に逃れてきたと伝えられている家系がありますので、一旦毛利領に逃れてから各地に散った人々がいたと考えられます。どうも安全性から考えるとこのルートの可能性が高いように思えます。本能寺の変直後であれば香川県の一部を除き、淡路島も含めて四国は長宗我部氏の勢力下にありましたので、丹波⇒毛利領⇒四国のルートであれば敵地を通らずに済みます。
そして、実はもうひとつ、もっと安全なルートがありました。それについては後編をお楽しみに!
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ご無沙汰しております、1/13の記事にコメントさせて頂きました信長好きの木下です。(笑)
面白い偶然があったのでご連絡いたしました。
私の妻が浜松出身なのですが(義父と義母は岐阜県出身)、なんと義父が明智氏の末裔かも?との事でした。経緯、真相は正直なところ私にはまだわかりませんが、義父の家系でたぶんこの100年内にかなりの費用をかけて家系図を作成した親戚がいるとの事です。私も一度見せてもらおうと思ってます。ちなみに義父の家系は岐阜のある寺です。最近たまたま明智様の本を義父にプレゼントしたところこの話を聞かされました。本人もどこまで信じているかわかりませんが、あまり口外してないようです。
真意は置いておいて、面白い偶然でしたのでご連絡させて頂きました。急に明智家や明智様に対して親近感が沸いております。(笑)
木下
kenji197503アットyahoo.co.jp
大事なことは口伝を装飾せずに正確に書き残すことだと思います。いずれ、それらが結びついて歴史の真実を明らかにするときが来ると思います。「時は今」です。