本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

本能寺の変:怨恨説を斬る!

2010年01月07日 | 通説・俗説・虚説を斬る!
 「光秀冤罪説を斬る!」では思わぬ捜査「斎藤利三犯人説」が必要という結論になりましたが、今回は本能寺の変の通説として広く信じられている「怨恨(えんこん)説」を斬ります。
 ★光秀冤罪説を斬る! はこちら

 まず、申し上げたいのは、これほどいい加減な話が歴史の通説として通用してしまっていること、通用させてしまっていることへの危機感です。歴史に学ぶということはこういうことでよいのだろうか?戦国史を見る視点をこのように狂わせたままでよいのだろうか?これを放置していることによって本能寺の変研究だけでなく、戦国史・日本中世史の研究を何十年も遅れさせてしまってよかったのか?
 そういった危機感をもって怨恨説を斬りたいと思います。

 それでは光秀冤罪説を斬った4つの視点に加えて「成功時報酬」の視点を加えて5つの視点で評価してみます。「成功時報酬」の視点は「動機」の中に含んでいたのですが、よりはっきりさせるために独立させました。
  ①動機       犯人に信長殺しの動機があるか
  ②犯行可能性   犯行を実行できる可能性があるかどうか
  ③関係者の証言  犯行を裏付ける証言があるかどうか
  ④本人の自白   犯人自身の自白があるかどうか
  ⑤成功時報酬   犯行成功による報酬があったかどうか

 まず動機。信長が光秀をいじめ抜いたので光秀が信長を怨んで殺したという話。これは後世(江戸時代)の軍記物という物語が面白おかしく書いて広めたものに過ぎません。話がどんどん膨れ上がって、人形浄瑠璃や歌舞伎にまでなって広まったのです。
 皆さんが知っている本能寺の変はどれも軍記物が作ったものといっても過言ではありません。信長は光秀の態度に怒って殴った、森蘭丸に扇で頭をたたかせた、家康饗応役を取り上げて面目を潰した、中国へ出陣して秀吉の指揮に従えと命令した、人質となった母親を死に追いやった・・・。あるいは、「敵は本能寺にあり」と言った、天王山の争奪が山崎の戦いの勝敗を決めた、明智左馬助が琵琶湖を馬で渡ったなどの話もそうです。森蘭丸という名前さえ、本当は「乱丸」であったものを軍記物が「蘭丸」に変えてしまったものです。

 江戸時代に知れ渡った話が何故、百数十年以上もたった現代でもすたれることなく、広く知られているのでしょうか。
 それは、著名な小説家が軍記物をネタに使ったベストセラー小説を書いたためです。吉川英治『新書太閤記』に始まって司馬遼太郎『国盗り物語』など枚挙に暇がありません。そしてさらに、これをこの40年間、日本国中あまねく隅々まで広めたのはテレビです。大河ドラマがベストセラー小説を原作として、とても魅力的なお話を展開し続けたのです。

 ★刷り込まれた通説  ← もう少し詳しく解説しています

 思わず力が入って長文となってしまいましたが、とにかく信長が光秀をいじめた事実がありません。信憑性のある史料には一切書かれていません。それどころか信長が光秀を腹心の家臣として信頼していたことは信長の家臣の書いた『信長公記(しんちょうこうき)』で明らかです。したがって、光秀が信長を怨んでいたはずはありません。怨恨という動機はありえないのです。

 信憑性のある関係者の証言や光秀の自白の視点について見ても、怨恨による謀反という証言は見つかりません。

 成功時報酬の視点で見ると、怨みを晴らせたのが報酬ということになりますが、その代償が一族滅亡です。怨みを晴らすという報酬に一族の命を賭ける? 明智光秀とはそのような人物という歴史解釈だったわけですが、それは当時の武将という存在、つまり、一族郎党の生存に責任を負った者がどのようなものかを理解していない見方です。

 ★明智光秀は氏族長 ← 少し関連するお話が書かれています

 怨恨説は動機についてしか言ったものではありませんので、実行可能性の視点については評価できないことになってしまいますが、怨恨説こそ通説の代表ですので、犯行プロセスについては通説を対象に論じます。
 実行可能性で問題になるのは、何故いとも簡単に光秀は信長を本能寺で討てたのか、ということです。中国出陣のために織田本隊に先行して本能寺へわずかな供回りで信長が滞在したという千載一遇のチャンスを光秀はいかにしてとらえることができたのか?
 信長周辺に敏感な情報網を張っていなければできない犯行。それでいながら織田信忠(信長の嫡男)が本能寺近傍の妙覚寺に宿泊しているのを知らず、信忠襲撃が遅れる失態を何故犯したのか?
 信長・信忠父子を討ったあと、安土城占領に向かった光秀は織田本隊よりはるかに少ない軍勢で安土城に無血入城できるとどうして確信できていたのか?
 そもそも信長は何故光秀に無警戒だったのか?光秀をいじめ抜いていて、光秀が怨んでいることを知っていたならば光秀の謀反の可能性も計算にいれていたはず。

 光秀の謀反は安土城占領までは実に見事に成功しています。しかしどうやってうまく成功させられたのかは、以上述べてきたように明らかではありません。犯罪で言えば犯行プロセスが明らかでないのです。成功してしまっている事実があるが故に、どうやって成功させえたのかについての検証が行われずに済まされてしまったのです。

 怨恨説を否定する根拠は『本能寺の変 四二七年目の真実』に詳しく書きました。本ブログでは書ききれませんので、まだ疑問が残る方は是非本をお読みください。


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2 コメント

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ご指摘のとおりです (明智憲三郎)
2011-03-07 20:24:56
 お恥ずかしい。ご指摘のとおりです。1箇所は既に修正済みですが、片方は気が付いておりませんでした。ありがとうございます。
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書籍内の訂正箇所 (兄やん)
2011-03-06 23:02:51
現在、明智さんの著書を読みながら、自分なりに年表を作っていたのですが、2か所書き間違いかな?という箇所を見つけたのでご報告させていただきます。

1つ目は、95頁の8行目
「信長の上洛は永禄十年(一五六七)ですから」(正しくは永禄十一年(一五六八)じゃないのかな?と思います)

2つ目は157頁の4行目
「そして兼見は翌日の六月六日」(この日付、正しくは「八日」じゃないのかな?と思います)

もう既に増刷している分では修正されているかもしれませんし、僕の勘違いかもしれないですが、もし間違いでまだ伝わっていなければ、と思って連絡させてもらいました。
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