いよいよ2012年の大河ドラマ「平清盛」がスタートしました。
昨年の「江」は私が追っている本能寺の変の真実に直接かかわる内容だったので、1年間毎週の番組を歴史捜査して記事を書きました。
★ 大河ドラマ「江」の歴史捜査:目次
今年の「平清盛」は時代がさかのぼりすぎてしまうので、毎週フォローする自信はありません。とはいえ、戦国時代につながる武士の時代の先駆けですので、捜査してみる価値はあると思いますので、「江」と同じように史実の裏付けがどのようになされているかを捜査してみます。
先週の第1回の放送は視聴率が低かったようですが、私は番組としてはなかなかよい滑り出しだったように思います。足利尊氏ほどではないとしても、世の中の平清盛の人気がいまいちなのでしょう。今回の大河ドラマでその不人気を跳ね返してほしいものです。もちろん、より史実に近い清盛像を描いていただいて。
さて、第1回放送では清盛は白河法皇の実子として描かれていました。これは史実なのでしょうか?
私も情報を持ち合わせていないのでWikipediaに何が書かれているかみてみました。
★ Wikipedia「平清盛」記事
記事によれば、もちろん確たる証拠があるわけではなく、状況証拠として祇園女御の庇護があったことと異例の出世を遂げたこと、そして当時から白河法皇の実子との説があったことが書かれています。どうやら大河ドラマの作家の創作ではないようですが、定説とまではいえないようです。
この状況証拠の中で「当時から白河法皇の実子との説があった」ことは重みがあります。現代人が想像してそう思ったというのとは明らかに証拠としての重みが違います。それでは、そのことはどのような史料に書かれているのでしょうか?
『平家物語』や『源平盛衰記』であれば、『明智軍記』や『太閤記』ほど出鱈目ではないとしてもやはり同じように後世に書かれた物語「軍記物」です。証拠能力は極めて低いと言わざるを得ません。ちなみに『明智軍記』や『太閤記』は繰り返し申し上げているように証拠能力はゼロです。
果たして、本能寺の変に関して極めて高い証拠能力を有した吉田兼見、山科言経、勧修寺晴豊、松平家忠、英俊などが残した日記に相当する史料が残っているのでしょうか?彼らの日記が残されていたからこそ私の歴史捜査が可能となり『本能寺の変 四二七年目の真実』が明らかになったのです。本能寺の変は1582年。清盛が生きたのはそれより400年も前。とても、そのような史料が残されていそうもない気がします。
ところがありました!
公家の九条兼実(くじょうかねざね)の日記『玉葉(ぎょくよう)』です。この日記は1164年から1200年まで書かれているので、1181年に64歳で没した清盛の後半生をカバーしています。1994年から2011年にかけて『九条家玉葉』として活字化されて明治書院と宮内庁書陵部から13巻に分けて出版されています。国立国会図書館の蔵書にありますし、なんと横浜市図書館の蔵書にもあります。
また、百錬抄、十訓抄、愚管抄や軍記物の保元物語・平治物語といった史料に関連記事があるようですが、これらについては果たして証拠能力がどの程度あるかはわかりません。
この1年、大河ドラマ「平清盛」にお付き合いして勉強してみたいと思います。
★ 『本能寺の変 四二七年目の真実』読者書評
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>>>本能寺の変 四二七年目の真実
【定説の根拠を斬る!シリーズ】
通説を作った羽柴秀吉『惟任退治記』
軍神豊臣秀吉が歪めた本能寺の変研究
定説の根拠を斬る!「中国大返し」
定説の根拠を斬る!「安土城放火犯」
定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」
定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(続き)
定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(最終回)
定説の根拠を斬る!「朝倉義景仕官」
定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」
定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その2
定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その3
定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その4
【信長は謀略で殺されたのだ 偶発説を嗤うシリーズ】
信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う
信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(続き)
信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(完結編)
信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(駄目押し編)
昨年の「江」は私が追っている本能寺の変の真実に直接かかわる内容だったので、1年間毎週の番組を歴史捜査して記事を書きました。
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今年の「平清盛」は時代がさかのぼりすぎてしまうので、毎週フォローする自信はありません。とはいえ、戦国時代につながる武士の時代の先駆けですので、捜査してみる価値はあると思いますので、「江」と同じように史実の裏付けがどのようになされているかを捜査してみます。
先週の第1回の放送は視聴率が低かったようですが、私は番組としてはなかなかよい滑り出しだったように思います。足利尊氏ほどではないとしても、世の中の平清盛の人気がいまいちなのでしょう。今回の大河ドラマでその不人気を跳ね返してほしいものです。もちろん、より史実に近い清盛像を描いていただいて。
さて、第1回放送では清盛は白河法皇の実子として描かれていました。これは史実なのでしょうか?
私も情報を持ち合わせていないのでWikipediaに何が書かれているかみてみました。
★ Wikipedia「平清盛」記事
記事によれば、もちろん確たる証拠があるわけではなく、状況証拠として祇園女御の庇護があったことと異例の出世を遂げたこと、そして当時から白河法皇の実子との説があったことが書かれています。どうやら大河ドラマの作家の創作ではないようですが、定説とまではいえないようです。
この状況証拠の中で「当時から白河法皇の実子との説があった」ことは重みがあります。現代人が想像してそう思ったというのとは明らかに証拠としての重みが違います。それでは、そのことはどのような史料に書かれているのでしょうか?
『平家物語』や『源平盛衰記』であれば、『明智軍記』や『太閤記』ほど出鱈目ではないとしてもやはり同じように後世に書かれた物語「軍記物」です。証拠能力は極めて低いと言わざるを得ません。ちなみに『明智軍記』や『太閤記』は繰り返し申し上げているように証拠能力はゼロです。
果たして、本能寺の変に関して極めて高い証拠能力を有した吉田兼見、山科言経、勧修寺晴豊、松平家忠、英俊などが残した日記に相当する史料が残っているのでしょうか?彼らの日記が残されていたからこそ私の歴史捜査が可能となり『本能寺の変 四二七年目の真実』が明らかになったのです。本能寺の変は1582年。清盛が生きたのはそれより400年も前。とても、そのような史料が残されていそうもない気がします。
ところがありました!
公家の九条兼実(くじょうかねざね)の日記『玉葉(ぎょくよう)』です。この日記は1164年から1200年まで書かれているので、1181年に64歳で没した清盛の後半生をカバーしています。1994年から2011年にかけて『九条家玉葉』として活字化されて明治書院と宮内庁書陵部から13巻に分けて出版されています。国立国会図書館の蔵書にありますし、なんと横浜市図書館の蔵書にもあります。
また、百錬抄、十訓抄、愚管抄や軍記物の保元物語・平治物語といった史料に関連記事があるようですが、これらについては果たして証拠能力がどの程度あるかはわかりません。
この1年、大河ドラマ「平清盛」にお付き合いして勉強してみたいと思います。
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信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う
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信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(駄目押し編)
朝廷に関する部分ですのでやはり高橋氏の意見で基本的な設定がなされているようですが、武士に関する部分は本郷氏の意見が採用されていくのかな、とか推測してみたり。
とりあえずは階級闘争路線から始めて、穢れ、血、とかかなりシリアスなテーマを持ち出しているようですが、これで話が続くのかなと少し心配・・?
見る人間を興奮させます
いやぁこれは楽しみ(ワクワク)
http://www.nhk.or.jp/shinyabin/
1月分について番組の時代考証を担当している東京大学准教授の本郷和人氏の興味深いお話が聴けました。