明智光秀研究を阻害しているのが「朝倉仕官説」、つまり光秀は越前朝倉氏に仕えていて、そこで足利義昭・細川藤孝とめぐり合い、義昭と信長を結びつけて上洛させることに貢献したという説です。この説は悪名高き軍記物『明智軍記』が書いたもので、それを歴史学の泰斗・高柳光寿氏が微妙な言い方で肯定してしまったことによって歴史研究界でも史実の如くにみなされてきている話です。
★ 定説の根拠を斬る!「朝倉義景仕官」
この説が全く根拠のないものであること、そして光秀は細川藤孝に中間(ちゅうげん)として仕えていて、義昭が近江へ脱出して将軍職継承を目指して自称の「幕府」を旗揚げした際に幕府の足軽衆に取り立てられたことは拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』で極めて蓋然性高い史実として立証しました。
拙著出版から既に2年たちましたが、残念ながらこの史実を追認する歴史研究界の動きはないようです。
そこで、さらに立証を強化する証拠がないか、探すことにしました。
調べてみると朝倉氏や朝倉義景のことを書いた『朝倉始末記』というのがあることがわかりました。
ただし、軍記物であるとして史料的な評価は低いようで歴史研究界からは注目されていない書物のようです。Wikipediaにも「朝倉始末記」という記事はありません(2011年4月28日現在)。
amazonでは現代語訳本の中古が3冊売りに出ていますが、なんと7470円~8500円。他の中古書店では売っていませんでした。幸い横浜市立図書館に蔵書があったので借りて読んでみました。
なるほど軍記物です。朝倉氏の興隆と滅亡の話、特に義景が信長に滅ぼされる合戦の模様やその後、越前を支配した一揆を信長が滅ぼすまでの話が詳しく書かれています。作者は不明とされていますが、義景や一揆の滅亡の様子を身近で目撃した人物でないと書けない記事がいろいろ出てきます。
ここまでは『明智軍記』と同様の軍記物であり、創作物として片付けざるを得ない書物という評価になります。ところが『明智軍記』とは決定的に違う点がありました。それは書かれた時期です。
『明智軍記』は本能寺の変から既に100年以上たって出版されたものです。それでいながら、それまでに公表されていなかった話がたくさん出てきます。当然、それは創作といえます。
ところが『朝倉始末記』は信長の存命中、つまり天正十年(1582年)までに書かれたものであるとみられます。松原信之氏という研究家は天正7年以前に成立したと分析しているようですが、私は登場人物の名前の書き方で信長存命中であることは間違いないとみました。
その根拠となった代表的な人物の名前をあげると次のように書かれています。
【天正元年八月 信長の越前朝倉攻め】
信長公 木下藤吉郎 明智日向守
【天正三年八月 信長の越前一揆攻め】
信長公 日向守 羽柴筑前守 徳川家康
これでわかるのは、信長が一貫して「信長公」と敬称付きで書かれているのに対して、秀吉も家康も敬称が付いていないことです。フロイスの『日本史』などを見ても執筆者は書いた時点での人物の立場によって敬称を付けたり、付けなかったりと気を使って書いていることがわかります。『朝倉始末記』に一貫して「信長公」と書かれていることによって信長の為政の下で書かれたことは間違いありません。
また、不明とされる執筆者は越前の住人ではなかったと考えられます。なぜならば、滅ぼされた側の人物であれば、流石に信長に敬称を付ける気にはならなかったのではないかと考えられるからです。執筆者を推理すると一揆滅亡後に越前に戦後処理のためにやってきた信長方の人物ではないでしょうか。その人物が朝倉方・一揆方の生き残りの人物から取材して書いたとみると史料としての価値はかなり高いことになります。
さて、肝心の「光秀は朝倉義景に仕えていたか?」に関して『朝倉始末記』は何も書いていません。つまり、仕えていたとも仕えていなかったとも書かれていません。『明智軍記』によれば朝倉仕官時の光秀の身分は低かったので、仕えていたという記事がないからといって仕えていなかったことの決定的な証拠とは言い切れないかもしれません。
ところが、光秀が信長軍として越前に攻め込んで来たことは書かれていますので、朝倉義景の滅亡理由を彼の失政にあったとする『朝倉始末記』の執筆者にとっては、光秀を追い出すような形で手放した義景の失政として格好の記事の材料になったはずです。もし、彼が朝倉仕官の話を知っていたのなら間違いなく書いたでしょう。しかし、彼は書きませんでした。彼はそのような情報をつかんでいなかったのです。彼がキャッチできなかった光秀の「朝倉仕官」情報を100年後の『明智軍記』の作者が入手できるはずもないと思いますが、いかがでしょうか。
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★ 定説の根拠を斬る!「朝倉義景仕官」
この説が全く根拠のないものであること、そして光秀は細川藤孝に中間(ちゅうげん)として仕えていて、義昭が近江へ脱出して将軍職継承を目指して自称の「幕府」を旗揚げした際に幕府の足軽衆に取り立てられたことは拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』で極めて蓋然性高い史実として立証しました。
拙著出版から既に2年たちましたが、残念ながらこの史実を追認する歴史研究界の動きはないようです。
そこで、さらに立証を強化する証拠がないか、探すことにしました。
調べてみると朝倉氏や朝倉義景のことを書いた『朝倉始末記』というのがあることがわかりました。
朝倉始末記 (日本合戦騒動叢書) | |
藤居 正規 | |
勉誠社 |
ただし、軍記物であるとして史料的な評価は低いようで歴史研究界からは注目されていない書物のようです。Wikipediaにも「朝倉始末記」という記事はありません(2011年4月28日現在)。
amazonでは現代語訳本の中古が3冊売りに出ていますが、なんと7470円~8500円。他の中古書店では売っていませんでした。幸い横浜市立図書館に蔵書があったので借りて読んでみました。
なるほど軍記物です。朝倉氏の興隆と滅亡の話、特に義景が信長に滅ぼされる合戦の模様やその後、越前を支配した一揆を信長が滅ぼすまでの話が詳しく書かれています。作者は不明とされていますが、義景や一揆の滅亡の様子を身近で目撃した人物でないと書けない記事がいろいろ出てきます。
ここまでは『明智軍記』と同様の軍記物であり、創作物として片付けざるを得ない書物という評価になります。ところが『明智軍記』とは決定的に違う点がありました。それは書かれた時期です。
『明智軍記』は本能寺の変から既に100年以上たって出版されたものです。それでいながら、それまでに公表されていなかった話がたくさん出てきます。当然、それは創作といえます。
ところが『朝倉始末記』は信長の存命中、つまり天正十年(1582年)までに書かれたものであるとみられます。松原信之氏という研究家は天正7年以前に成立したと分析しているようですが、私は登場人物の名前の書き方で信長存命中であることは間違いないとみました。
その根拠となった代表的な人物の名前をあげると次のように書かれています。
【天正元年八月 信長の越前朝倉攻め】
信長公 木下藤吉郎 明智日向守
【天正三年八月 信長の越前一揆攻め】
信長公 日向守 羽柴筑前守 徳川家康
これでわかるのは、信長が一貫して「信長公」と敬称付きで書かれているのに対して、秀吉も家康も敬称が付いていないことです。フロイスの『日本史』などを見ても執筆者は書いた時点での人物の立場によって敬称を付けたり、付けなかったりと気を使って書いていることがわかります。『朝倉始末記』に一貫して「信長公」と書かれていることによって信長の為政の下で書かれたことは間違いありません。
また、不明とされる執筆者は越前の住人ではなかったと考えられます。なぜならば、滅ぼされた側の人物であれば、流石に信長に敬称を付ける気にはならなかったのではないかと考えられるからです。執筆者を推理すると一揆滅亡後に越前に戦後処理のためにやってきた信長方の人物ではないでしょうか。その人物が朝倉方・一揆方の生き残りの人物から取材して書いたとみると史料としての価値はかなり高いことになります。
さて、肝心の「光秀は朝倉義景に仕えていたか?」に関して『朝倉始末記』は何も書いていません。つまり、仕えていたとも仕えていなかったとも書かれていません。『明智軍記』によれば朝倉仕官時の光秀の身分は低かったので、仕えていたという記事がないからといって仕えていなかったことの決定的な証拠とは言い切れないかもしれません。
ところが、光秀が信長軍として越前に攻め込んで来たことは書かれていますので、朝倉義景の滅亡理由を彼の失政にあったとする『朝倉始末記』の執筆者にとっては、光秀を追い出すような形で手放した義景の失政として格好の記事の材料になったはずです。もし、彼が朝倉仕官の話を知っていたのなら間違いなく書いたでしょう。しかし、彼は書きませんでした。彼はそのような情報をつかんでいなかったのです。彼がキャッチできなかった光秀の「朝倉仕官」情報を100年後の『明智軍記』の作者が入手できるはずもないと思いますが、いかがでしょうか。
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文中、言継卿記卅一元亀元年(永禄十三年)一月に言継が明智に年始にいったという記事があり、確認するために県立図書館で当該部分を調べてみたのですが、見当たりませんでした。念のため、元亀二年、三年も調べてみたのですが、発見できませんでした。
調べ方が悪いのでしょうか。
できましたら、御著書で省略してある部分を含む、当該部分の原文を教えていただけませんでしょうか。
さて、ご質問への答えは次のようになります。ご確認いただけると幸いです。
続群書類従完成会出版の『言継卿記 第四』三百八十一ページ、永禄十三年正月二十六日条に以下の記述があります。
「未下刻より奉行衆方、年頭之禮に罷向、路次次第、竹内治部少輔、三淵大和守、同弥四郎、一色式部少輔、曽我兵庫頭、明智十兵衛、・・・・」
この記述はこれまで歴史研究者が誰も取り上げていません。おそらく通説と異なるという理由だと思います。私が最初の発見者となりますが、発見した人はたくさんいたはずで、私は最初の主張者なのでしょう。犯罪捜査でいえば、警察の捜査官は知っていても言わなかったことを初めて公に言った弁護側の証人のようなものでしょうか。
再度、図書館まで出向いて確認したいと思います。
というのは、お知らせいただいた範囲では、何とも理解できないからです。
その理由ですが、
「方」を「江(え)」「辺(へ)」と同じく大凡の位置・方向・時間などを表す接尾語と見做すと、「奉行衆」は主語でなく、目的語になりますが、言継卿記』では「罷向」目的地を示す時は、「~へ罷向」「~迄迎に罷向」「~迄罷向」と云う風に慣用しているように思えます。
また、永禄十三年一月一日には幕府奉公衆の畠山次郎・朽木兵庫助・竹内治部少輔、山科言継を年賀訪問しているらしいですし、一月三日には朝山日乗が山科言継を訪問し年頭参賀を告げているようです。
つまり、永禄十二(1569)年には権大納言となっているような高位の人の方から、武家の家臣である奉公衆程度の人々の宅へ年賀に回るだろうかという疑問があるのです。
また、明智を除いた面々にはそれほどの権勢があったとも思えません。
そこで、これを「方(ガタ)=達」という複数の人々に対する敬語の接尾語と捉えると、奉行衆(ホウコウシュウ)が主語になりますから、主客が逆転します。
それが、どちらの接尾語として使われているかを知るためには、もっと広い範囲の前後の文章を知る必要があると思って調べてみようと思った次第です。
「未下刻」以前と「明智」以下の人名の後に続く文章を知らなければ、「方」の意味は決定し難いと思うのです。
いかが思われますか。
言継という公家が足利幕府の奉公衆とどのような関係を持っていたのかは『言継卿記』を素直に読んで学び取るべきと考えました。したがって、光秀の出てくる文章だけをスポットで切り出して読むのではなく、全体を読み通して何が書かれているかを読み取ることにしました。
その結果、言継が日常的に奉公衆と親しく交わっていたこと、毎年正月には近所の奉公衆へのあいさつ回りを行っていることがわかりました。しかも、正月早々ではなく月末近くになって回っているので、ご指摘のように「奉公衆程度」かどうかはわかりませんが優先度は低かったのではないかと思います。
古文書読みのプロとお見受けしますので、文面解読の結果は是非ご教示いただきたいと思います。
NHK通信講座の古文書基礎コースを履修しましたが、古文書読みのプロなどではありません。ですが、史料は正しく読まなければ議論の基礎にできないと思います。
御指摘の「毎年正月には近所の奉公衆へのあいさつ回りを行っていることがわかった」といわれますが、元亀二年から天正四年までの言継卿記を見た限りでは、そのような事実はありませんでした。
もし、見落としがあるようでしたら、年月日を教えて頂ければ確認しに再度図書館に行こうと思っています。
理屈からすると、公家の言継が奉公衆に年賀に伺うことはないはずです。なぜなら、武家(義昭)のところにさえも参賀に行っていないからです。その理由は、元亀二年一月一日条に書いてあります。参考までに。
永禄六年正月九日条には「近邊禮に罷向、・・・・」の中に奉公衆石谷兵部少輔などが書かれています。
こうして言継の書き方の類型をみてみると永禄十三年正月の「禮に罷向、路次次第」の文は「言継が奉公衆の屋敷を道順に年賀の礼に訪れた」という意味で間違いないとわかります。
なお、この文の明智十兵衛以下は人名が十名ほど書かれたのち、「等也」で終わっています。文の始まりは「未下刻より」です。
次に、言継は答礼に訪ねたのであって、自身から最初に年賀に行ったわけではありませんから、これも不適当だと思います。
また、その事例も「~に罷向」ですから奉公衆「方」の訳の例にはならないと思います。
明智さんの方が、光秀は幕府の高位高官であったとの思い込みがあるのではありませんか。明智を義昭の足軽衆とする史料はあっても、奉公衆とする史料はありませんし、幕府の評定衆であったとか政所の相当の役目についたという史料もないように思えます。
さらに、言継が道順に答礼に回ったとしますと、言継は室町通りを下ったことになるわけですが、すると条坊制の四行八門によって明智邸を特定できる可能性も出てくることになるわけですが、本当にそうだったでしょうか。
1.元亀二年にも事例があります。
正月廿五日条:言継が公家の家など訪問している記述の中に摂津守、一色式部少輔へ禮に罷向
正月廿七日条:方々禮に罷向記述の中に朽木兵庫助、松田豊前守、諏方信乃守など
2.元亀三年から天正三年までの言継卿記は欠落しており確認できません。
(それともお手持ちの本には記載があるのでしょうか?そうであれば出版社と出版年をお知らせください)
3.天正元年以降は奉公衆を訪問しなくて当然です。
将軍足利義昭の追放にともなって幕府組織は京都に存在しなくなったため、これ以降は奉公衆を訪問できなくて当然です。ただし、天正四年の記事をみると元奉公衆の人物を訪問している記述があります。正月十日条:松田豊前守、細川右馬頭など。
これまで質問させていただいた事々も御教示いただければ幸いです。
質問事項は次の四点です。
①「方」を「へ」と訳すのは適切か。適切だとすれば、言継卿記にはその文例があるか。
②大納言言継が義昭幕府の高官(評定衆等)に年始に、元亀二年と三年の間に訪問した例はあるか。ただし答礼は除く。
③元亀二年一月一日条について、言継が義昭に年賀に行かなかったことをどのように理解されているのか。
④言継が道順に答礼に回ったとすると、室町通りを下ったことになるが、なぜ明智邸を特定できないのか。
以上、宜しくお願いします。
光秀が元禄十三年に幕府奉公衆のかなりの地位にいたということの証拠に『言継卿記』永禄十三年正月の記述が採用できるかという確認だったと思います。
その意味では①の質問には「方」の解釈にこだわるのではなく、「年頭之禮に罷向、路次次第、・・・」の文例で十分な説明がついていると考えます。路次次第に奉公衆の方から言継に禮に来るわけもないですし、禮ということは奉公衆が言継に年賀に来てくれたことへの言継からの禮ということでつじつまが合っています。どうしても「方」にこだわられるのでしたら、言継卿記に貴意のような文例があるのかをむしろ貴方からお示しいただくのが筋かと思います。私はなんら「方」について疑問を感じておりませんので。
②③の質問はそもそもの議論の主旨からみて私が問われて回答すべきこととは考えられません。何かおっしゃりたいことがあるのであればご説明していただいて議論を深めることに役立てていただければと思います。
④の質問は私自身、私の見出した記事によって光秀の屋敷の場所がわかるのではないかと大いに期待していたことですし、誰も研究しないのであれば私が捜査せざるをえないかと考えてはいますが、その答をなぜ出せないのだと私が問い詰められるべきこととは考えていません。場所がすでにおわかりになっているような言い方をされていますので、是非ご教示いただきたいと思います。明智光秀研究にとっては実に大きな成果になると思います。