さて御船練り徹底研究、今回はその御船の原型を解明してみました。
門之脇の初代御船は、故宇都宮房太郎氏が明治27年に建造し寄贈されたものです。
江戸時代が終わって約20年ちかく経っています。この狩浜地区は江戸の時代
吉田藩の配下にありました。吉田町では、殿様のお膝元であった為、比較的はやくから
御船が存在していました。それが狩浜にも伝わってきたのは明治となった頃で
これは殿様の許可が必要であった為の差と考えられます。ただし、御船の練りは
袴などの製作時期からみて、すでに江戸末期にはあったようです。
その御船の形ですが、吉田町のそれとほとんど変わりません。
そしてその姿、かたちは、伊達博物館に展示されている参勤交代の絵巻物に
でてくる「御座船」(ござぶね)とそっくりです。
「御座船」とは、藩主が移動したりする時に使う専用の船のことです。
その為、外観内装とも豪華絢爛、約31mの長さがありました。
船は矢倉で囲まれ、朱と黒の華やかな大型船でした。
当時の参勤交代には、御座船以下約250隻の船団でもって、なおかつ漕ぎ手だけで
3458人!の大船団がこの宇和海を渡ってゆきました。(宇和島藩の例)
そんな藩の象徴のような豪華華麗なる御座船を、当時の人たちが祭りの練りにしたのも
なんとなく分かるような気がします。
そのように御座船をルーツとして、やがて明治となり、時代が変わって周辺の地域にも
御船が広まったと思われます。
門之脇の初代御船は、故宇都宮房太郎氏が明治27年に建造し寄贈されたものです。
江戸時代が終わって約20年ちかく経っています。この狩浜地区は江戸の時代
吉田藩の配下にありました。吉田町では、殿様のお膝元であった為、比較的はやくから
御船が存在していました。それが狩浜にも伝わってきたのは明治となった頃で
これは殿様の許可が必要であった為の差と考えられます。ただし、御船の練りは
袴などの製作時期からみて、すでに江戸末期にはあったようです。
その御船の形ですが、吉田町のそれとほとんど変わりません。
そしてその姿、かたちは、伊達博物館に展示されている参勤交代の絵巻物に
でてくる「御座船」(ござぶね)とそっくりです。
「御座船」とは、藩主が移動したりする時に使う専用の船のことです。
その為、外観内装とも豪華絢爛、約31mの長さがありました。
船は矢倉で囲まれ、朱と黒の華やかな大型船でした。
当時の参勤交代には、御座船以下約250隻の船団でもって、なおかつ漕ぎ手だけで
3458人!の大船団がこの宇和海を渡ってゆきました。(宇和島藩の例)
そんな藩の象徴のような豪華華麗なる御座船を、当時の人たちが祭りの練りにしたのも
なんとなく分かるような気がします。
そのように御座船をルーツとして、やがて明治となり、時代が変わって周辺の地域にも
御船が広まったと思われます。