「親子で楽しむこどもの本」 谷川澄雄 にっけん教育出版社
第五章 民話を楽しむ P-153~
長く語り伝えられてきた民話には、人々の心を深くとらえる力があります。
ですから、ただ一回の読み、語りでは、その深さを味わいとることはむずかしいと思います。
読み、語る工夫を重ねることによって、幼いこどもたちの心を深くとらえることができると思うのです。
民話の世界は炉端で語られるものだと言います。
それに比べて民謡は、農作業や山仕事などの労働と結びついて歌われるものです。
今、人々のくらしから、ともに歌う歌が失われてしまいました。
汗を流し、苦しい労働を少しでも明るいものにするために、
次々に歌をかけ合っていった民謡は、
互いの心の連帯意識を強めるためにたいへん役立ったことでした。
一方、炉端で語られた民話は、農民やきこりたちが苦しい労働を終えてもどったあと、
家族がくつろぐところで生まれ、語りつがれていったものです。
それだけに炉端では農民やきこりたちの喜びや哀しみの本音が語られました。
そして、どうしても自分たちの苦しみを自分たちの力で排除することができないとき、人々は想像の世界で大きな力を持った人物をつくり出しました。
それが「八郎」(斉藤隆介)や「ちからたろう」(今江祥智)などになったのです。
ですから、民話は「夜の世界」のもの、民謡は「昼の世界」のものとも言われます。
炉端で語られた民話については、忘れることのできない情景があります。
それは、もうずっと前のことになりますが、
NHKの新日本紀行というテレビでとりあげられた雪深い小千谷の山里の炉端のことです。
しんしんと雪が降っています。
囲炉裏には赤々と火が燃え、吊りかぎにかかった鍋からは湯気が立ち上っていました。
老いたばあさまが、唇をつかって糸をよっています。
その唇は長い年月の糸よりで深くひびわれていました。
その向かいには頬の赤い少女がすわって食い入るように、ばあさまを見つめています。
ばあさまは、「六地蔵」の話をぽつりぽつりと語っていきます。
糸を唇に持っていくたびに話はぽつりと切れます。
少女は、そのとぎれのたびに、それからどうなったのかと話の先を催促しています。
炉の木がときどきはじけて燃え上がる音のほか、まったく物音ひとつしません。
ほんとうに静かな雪に埋もれた山里の囲炉裏端です。
民話を語るというのは、こういうことではないかと思いました。
大勢の人を前にして一気に語ってみせるというのでなく、
ほんとうにたどたどしいまでに、ゆっくりと間を取って語っていくこと、
それが民話の語り聞かせではないかと思ったのです。
その語りのとぎれの間に、聞いている子はどんなに広く、深く想像力を働かせることでしょう。
テレビの語りにもよいものがありますが、どうしても一方的な流れ込むままになってしまい、
想像力を働かせようと思っても、たちまち画面にあらわれては消えてしまいます。
ですから、ときにはまだるっこしいほど間を取って、
こどもの表情を見ながら読み聞かせたり、語ったりするのがいいと考えます。
第五章 民話を楽しむ P-153~
長く語り伝えられてきた民話には、人々の心を深くとらえる力があります。
ですから、ただ一回の読み、語りでは、その深さを味わいとることはむずかしいと思います。
読み、語る工夫を重ねることによって、幼いこどもたちの心を深くとらえることができると思うのです。
民話の世界は炉端で語られるものだと言います。
それに比べて民謡は、農作業や山仕事などの労働と結びついて歌われるものです。
今、人々のくらしから、ともに歌う歌が失われてしまいました。
汗を流し、苦しい労働を少しでも明るいものにするために、
次々に歌をかけ合っていった民謡は、
互いの心の連帯意識を強めるためにたいへん役立ったことでした。
一方、炉端で語られた民話は、農民やきこりたちが苦しい労働を終えてもどったあと、
家族がくつろぐところで生まれ、語りつがれていったものです。
それだけに炉端では農民やきこりたちの喜びや哀しみの本音が語られました。
そして、どうしても自分たちの苦しみを自分たちの力で排除することができないとき、人々は想像の世界で大きな力を持った人物をつくり出しました。
それが「八郎」(斉藤隆介)や「ちからたろう」(今江祥智)などになったのです。
ですから、民話は「夜の世界」のもの、民謡は「昼の世界」のものとも言われます。
炉端で語られた民話については、忘れることのできない情景があります。
それは、もうずっと前のことになりますが、
NHKの新日本紀行というテレビでとりあげられた雪深い小千谷の山里の炉端のことです。
しんしんと雪が降っています。
囲炉裏には赤々と火が燃え、吊りかぎにかかった鍋からは湯気が立ち上っていました。
老いたばあさまが、唇をつかって糸をよっています。
その唇は長い年月の糸よりで深くひびわれていました。
その向かいには頬の赤い少女がすわって食い入るように、ばあさまを見つめています。
ばあさまは、「六地蔵」の話をぽつりぽつりと語っていきます。
糸を唇に持っていくたびに話はぽつりと切れます。
少女は、そのとぎれのたびに、それからどうなったのかと話の先を催促しています。
炉の木がときどきはじけて燃え上がる音のほか、まったく物音ひとつしません。
ほんとうに静かな雪に埋もれた山里の囲炉裏端です。
民話を語るというのは、こういうことではないかと思いました。
大勢の人を前にして一気に語ってみせるというのでなく、
ほんとうにたどたどしいまでに、ゆっくりと間を取って語っていくこと、
それが民話の語り聞かせではないかと思ったのです。
その語りのとぎれの間に、聞いている子はどんなに広く、深く想像力を働かせることでしょう。
テレビの語りにもよいものがありますが、どうしても一方的な流れ込むままになってしまい、
想像力を働かせようと思っても、たちまち画面にあらわれては消えてしまいます。
ですから、ときにはまだるっこしいほど間を取って、
こどもの表情を見ながら読み聞かせたり、語ったりするのがいいと考えます。