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「今昔物語」 野口 武彦

2014年07月03日 00時27分42秒 | 古典
 「今昔物語」いまむかし  野口 武彦 著  文藝春秋 2014年

 あとがき

 前略

 日本人に限らず、一国の歴史の動きはどこか粘菌の生態に似ている。
粘菌は動物とも植物ともつかない奇妙な生物であり、いろいろな環境条件に合わせて生態を変え、
原形質の塊になるかと思えば、単細胞のアメーバ状態になってしぶとく生き延び、
胞子を放出して発芽させ、キノコの笠のような実体をとるといったサイクルを繰り返すそうである。

 人間の歴史にも時折、人間が原形質状態に還元され、実存の粘膜的部分を露出させて
いきなければならない時代がある。
たとえば、11世紀、『今昔物語』に語られているような古代律令制の解体期。
15,6世紀、室町幕府の衰退から戦国期の兵乱を経て、江戸時代初期まで続く混乱期。
19世紀末葉、幕末動乱から明治初年代に引き継がれる価値紊乱(びんらん)期。
いずれをとってみても、時の支配層が、従来の方式では統治できなくなった時代という共通点がある。

 そして今また21世紀初頭の日本。
われわれは、新たに原形質に還元される時代を迎えようとしている。

 そのメルクマール(指針)は、現在、人間生活のほとんどあらゆる部位で噴出しかけている
「自力救済」への欲求である。
人間が生きる権利を主張する限りは必ず他人との利害の対立が生じ、抗争を醸成させる。
その解決方法は安定した社会では、強力な政治権力をバックにした法的権威による裁定にゆだねられる。
政治権力と法的権威とは通常の状態ではたがいにあまり矛盾なく、
法権力という形態で安泰に統一されている。

 しかし、何らかの事情によって法権力からこの安泰が失われたらどうなるだろうか。
二つの場合が想定できる。
第一は、政治権力が弱体化して、法的制裁に不可欠な実力による担保が行われなくなった場合。
『今昔』的状況がそのケースである。
第二は、法律・法制が現行社会の実情に合わず、さまざまな齟齬(そご)を生じて、
法権力から下される裁定が万人を納得させられない事態が煩雑に起きることである。
多くの人々が諸法規は現状にそぐわないと感じ始めている状況である。

 現代日本で起きているのはこの第二のケースであろう。
それかあらぬか最近の日本人の振る舞いには『今昔物語』の世界に通じる物が多くなった。
一、二を挙げれば、死体の放置が珍しくなくなったし、児童虐待や捨て子も日常茶判事になってきた。
それは貧困階層か裏社会でのことにすぎないというか。
しかし今のままじゃ「ヤッチャイラレナイ」という空気が醸し出されたことは事実。
一部で常態と化した風儀がやがて全般を蔽(おお)うのは、
これまでの歴史に照らしてまったく時間の問題なのである。

 2013年12月29日  野口 武彦