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『徒然草』は、 橋本 治

2015年01月03日 00時16分17秒 | 古典
 「ハシモト式 古典入門」 橋本 治 1948年生まれ  ごま書房 1997年

 『徒然草』は、別に現代語に訳さなくてもいい古典

 やっと『徒然草』の出番です。「やっと」と言っても、べつに『徒然草』が日本の古典の最高峰というわけじゃありません。「やっとそのままでも読める古典が出てきた」ということですね。

 <神無月のころ、来栖野といふ所を過ぎて山里に尋ね入る事はべりしに、遥かなる苔の細道を踏みわけて心ぼそく住みなしたる庵あり>

 『徒然草』の第十一段です。なんとわかりやすい文章なんでしょう。
「神無月」とはいつか?「来栖野」とはどこか?「はべり」という言葉の意味はなにか?「庵」というのはどんな建物か?それは、辞書を引けばわかることです。わかりにくいところは、<心ぼそく住みなしたる>というところだけですが、これは、主語を考えればわかるでしょう。「神無月のころ、来栖野のいふ所を過ぎて山里に尋ね入」ったのは兼好法師で、「遥かなる苔の細道を踏みわけて心ぼそく住みなし」ているのは、兼好法師とは違う「庵の住人」です。「この庵の住人はきっと心ぼそく暮らしているのだろうなァ」と兼好法師には思えるような「庵」が、そこにあるんです。訳はかんたんにできそうですね。もしかしたら、これは「英語に訳しなさい」も可能な文章です。関係代名詞を使えばいいんですからね――「庵 which 遥かなる苔の細道を踏みわけて心ぼそく住みなしたる」です。それくらい、この文章の構造は明快です。

 兼好法師の文章は、よく「近代の日本語の先祖」というような言われ方をします。つまり、兼好法師の文章は、現代人でもそのまんま読めるんです。「でもオレは読めない」なんてことは言わないでください。この「読める」は、「読める人だったら読める」ということなんですから。この文章の構造は、我々の知っている現代日本語とほとんど同じものですね。だから私は、この『徒然草』をわざわざ現代語に訳す必要なんかないんだと思います。