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「世にも美しい日本語入門」 安野 光雅 藤原 正彦

2015年05月05日 00時09分35秒 | 日本語について
 「世にも美しい日本語入門」 安野 光雅 藤原 正彦 ちくまフリマー新書 2006年

 第一章 読書ゼミのこと P-12

 前略

 藤原 大学一年生を相手に読書ゼミをやっています。学生たちがとにかく、あまりにも本を読んでいないのです。いくら偏差値が高くても、それでは獣ならともかく、人間にはなれませんから、本を読ませようと思って始めたんです。もう十年ぐらいになります。主に岩波文庫を毎週一冊ずつ読ませるゼミで、クラスは二十名までと限っています。
 最初からこれを受講するための条件を公表します。まず、一週間に岩波文庫を一冊読むだけの根性。それから、一週間に岩波文庫を一冊買うだけの財力。その二つだけを条件としてあげるんです。これに怖けない子だけがくる。読む本は私が一方的に決めます。教室では民主主義は存在しません。私が「これを読んでこい」と命令する。

 安野 根性という条件は中でもいいですね。それに若い人たちと、同じ本について話せるというのはうらやましい。しかも、藤原さんの独断的なやりかたがいいです。いわゆる古典作品なら、すでに淘汰され、評価されてきたのですから、その読書が無駄にならないという保証が付いている、と信じられます。文学を読むことを強制しても、まずうらやまれることはないでしょう。私は、古典はいつまでも古びない、常に新しいと思っています。

 藤原 授業では、批評なり感想なり書いてきたものをもとに、皆でディスカッションする。感想でも批判でも批評でもなんでもい。書くものの長さは、特に制限なく自由に書け、と言います。私がそれを添削して翌週の授業で返す。文章力の向上にもなるし、もちろん知らない本を読んで教養も身につく。授業中のディスカッションで論理的な言葉の応酬をしますから、論理的思考の訓練にもなっています。
 その本を中心にディスカッションをするわけで、私と一対一のことも、皆で交じることもあります。
 これをやると、そこがまた大学生のいいところで、ほんとに変わります。
 たとえば、「戦前はまっくらくら。大正明治も自由はなく、女性は解放されておらず、ほんとに皆気の毒だった。江戸時代までの庶民は封建制度のもと、皆虐げられていた」という歴史を習ってきていて、現在の自分たちがいちばん賢く、偏見がなく、判断力もあると思っています。ところが、明治の人々の、あるいは大正の、戦前の、また江戸時代末期の本を次々に読むと、たった三ヵ月半ぐらいの読書ゼミの後で、逆にコンプレックスを持ってしまう。
「私たちほど最低な人間はいない。戦前の人も、大正の人も、明治の人も、私たちよりずっと素晴らしい人格や教養を備えていた。そもそも自分たちは、まともなものを何も読んでない」
「特攻隊で出撃する学徒兵は、前の晩に万葉集やニーチェを読んだりしている。田舎に残してきた恋人、父母、弟妹たちに手紙を書いているが素晴らしい文章だ。私たちはこんなものはとても書けない」
「いままでいったいわれわれは、何を習ってきたんだろう」
と、考えこんでしまう。もっと本を読まないと、この無知蒙昧のまま人生が終わってしまう、と目覚めてくれます。岩波文庫を十数冊読んでディスカッションするだけです。これが大学生の素晴らしさで、私にとっての醍醐味です。
 具体的には、新渡戸稲造『武士道』、内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』、岡倉天心『茶の本』とか、鈴木大拙『日本的霊性』、山川菊栄『武家の女性』。わりと新しい方では『きけわだつみのこえ』とか、宮本常一『忘れられた日本人』、無着成恭『山びこ学校』などです。
 たとえば、『忘れられた日本人』を読むだけで、農村も戦前、皆、逞しく生きていた。おばさんたちは田植えをしながらエロ話をしあい、貧困を笑い飛ばしながら快活に生きていた。そういうようなことがわかって、皆びっくりします。

 後略