「風俗時評」 花森 安治 中公文庫 2015年
本書「風俗時評」におさめられた文章は1952年から翌年にかけて、同名のラジオ番組で、花森が語ったものである。
大学生の記章 (その2) P-75
あご紐で記章を隠すか、隠さないかというようなことは、極く小さな問題で、とかく見逃されてしまいますけれど、実はここに大変大きな問題があるように思います。何も年がら年中、24時間、われは帝大生であるということを人に見せていばる必要がどこにあるのでしょうか。しかし実際は、われわれが学生であった頃を振り返ってみますと、帝大生というものは、そういう私立の大学と間違えられては困るというので、わざわざ帝大の記章をはっきりさせる、その気持ちの中には、帝大生という一種の特権意識が、すでに培われておった、と考えないわけにはゆかないのです。
今日、ボクらの同級生であるとかその連中がときどきクラス会などをいたしますが、そういう席で出る話は、あいつは学校はどこだということ、それから、やはり帝大出は立派だとか、やはり帝大でなくてはねなどというようなことを、公然と言う人間が多いということであります。そういう連中は、主に立派な銀行であるとか、大きな会社であるとか、あるいは一番多いのは官庁ですけれども、お役人、まあいま中堅どころで活躍している連中、それが同窓会や何かで、そういうことを言う。同窓会でなくとも、友達が2、3人寄りますと、すぐそういう話をする。これはボクも同じ学校を出たんですけれども、われながら何か非常に腹の立つ、背中の寒いような現象です。
この社会にはいろいろな階級があるというのは、勿論これは誰もご存じのことですけれども、自分は帝大を出たとか、自分は一中、一高、東大という出世コースを辿ったのであるとか、自分は学習院であるとか、自分は慶応であるとか、そういうような、一つの意識を死ぬまで鼻の先にぶら下げて生活をしているということは、(その人がどう考えて生活をしようと、それはボクの知ったことではありませんが)困るのは、そういう人たちは、この世の中をリードする立場や地位にいる人が多いということなのです。その人たちは、個人としては、どうお考えになろうと結構ですけれども、その人の考え方、そういう人たちの考え方が、国全体をそれだけ歪めているのではないかと思います。最近の国鉄の乗り越し手数料の問題を考えましても、こういうバカなことを考えるということは、やはりそこに思い上がった特権意識、一般国民というものを、虫けらのように考えて、自分だけは何か高い台の上にいるような意識、気持ち、こういうものがあるからだと思います。かならずしもそれは帝大だけの意識ではないのでしょうけれども、とに角、一般の国民とは違うという気持ちが、知らずしらずのうちに、何十年の間にその人の細胞の隅々にまで沁み通っているのだと思います。
そういう意味で、これからの若い人達には、そういうふうな一つの特権意識というものを、なるだけ培わないように、そういう機会は、非常に敏感によけて通るようにしたいもので、それはいろいろな点で考えられるでしょうけれども、制服なども、そういう観点から考え直してみる必要があろうかと思うのです。