「ラフカディオ・ハーン」 異文化体験の果てに 牧野 陽子 著 中公新書 1992年
「透明な世界」 P-182
ハーンの晩年の怪談を読むと、そのいずれもが不思議に透明な雰囲気に支配されているのに
気付かされる。
純粋ともいえるほどの緊張感がはりつめていて、どこかこの世をかけ離れた異次元の世界を思わせる。
そのひとつの理由は、研ぎ澄まされた文体にあろう。
紀行文作家時代の印象派風の装飾性と技巧が消え、単純で平易な言葉遣いが際立ってきた。
ハーンの『影』が出た時、ある外国の書評は「地方的色彩と魅力がなくなってしまった。」
と非難したが、ハーンはもはやエキゾチスムを手法でも主題でも完全に脱却していた。
文章から無駄な修飾語は一切省かれていた。
ハーンは一つの素材を何ヶ月もねかせた上で何十回も手を入れた。
削りに削ったあげくの簡潔さがそのまま力強さになっている、象徴性の漂う文体である。
ただより肝要なのは、素材が土着日本の説話や伝説でありながら、
仕上げはおよそ日本という特殊な土地から離れていることだと思える。
ハーンの用いた原話と再話作品とを比較するとほとんどの場合、
要所要所にハーンの手が入っているために両者が非常に異なっているのが分かる。
たとえば、「むじな」の原話は笑いの要素の強い化かし話だが、
ハーンは可笑しみを除去して”顔のない存在”に対する心理的恐怖感を中核にし、
ハーン特有の時空感覚のおりなす形而上的な説話に仕立てた。
そしてハーン以前の日本人の想像力のなかで”のっぺらぼう”はただ単に顔が異常に長い化け物
だったのが、この作品のために今は誰でも目鼻のない卵のような顔の人間だと思うようになっている。
話に当時の文学的流行を反映した西欧風衣装をまとわせることもした。
「茶碗の中」は原話の若衆趣味を排した上で十九世紀に多いドッペルゲンガー(二重人格者)の
物語のパターンを明らかにふまえているし、「雪女」は世紀末のファム・ファタール(宿命の女)
として造形されている。
その他の「和解」「宿世の恋」「おしどり」などの怪談でも、細かな道具だてや性格描写などで
ハーンの好んだゴーティエやフロベールとの歴然たる呼応をみいだすことができる。
それらの物語はにほんという特殊な舞台装置と筋の骨子を残しながら、仕上げは西洋風なのである。
そうなると、ハーンの筆を通して描かれる物語の世界は、日本であって日本ではなく、
また西洋を思わせながら西洋でもなくなってくる。
東洋でも西洋でもない不思議なファンタジー空間は民族の別など脱却して、
どこにもない所であるがゆえにどこにでもある所となり、
それゆえに作品に託された心象世界が一層浮き上がるのである。
「死者との遭遇」のテーマの変奏曲を奏でるハーンの怪談の世界は、ある意味で、
古今東西に見られる「再生の神話」の陰画、逆さ絵だともいえる。
再生神話が死者の蘇生に未来へむけての生命の永遠性の願いを宿らせるのに対し、ハーンの怪談は、
死者との合体を通して逆に過去に遡及する久遠の生命の継続性を問うからである。
そして素朴な民話を普遍的な神話の域にまで高めたのは、再話という手法であった。
ハーンは翻訳から文学修行を始め、紀行文におけるイメージの借用、日本文化論の価値転換、
と常に他の材料を用いてきたが、いま怪談において彼の手法の魔力が最大限に発揮されたといえよう。
「透明な世界」 P-182
ハーンの晩年の怪談を読むと、そのいずれもが不思議に透明な雰囲気に支配されているのに
気付かされる。
純粋ともいえるほどの緊張感がはりつめていて、どこかこの世をかけ離れた異次元の世界を思わせる。
そのひとつの理由は、研ぎ澄まされた文体にあろう。
紀行文作家時代の印象派風の装飾性と技巧が消え、単純で平易な言葉遣いが際立ってきた。
ハーンの『影』が出た時、ある外国の書評は「地方的色彩と魅力がなくなってしまった。」
と非難したが、ハーンはもはやエキゾチスムを手法でも主題でも完全に脱却していた。
文章から無駄な修飾語は一切省かれていた。
ハーンは一つの素材を何ヶ月もねかせた上で何十回も手を入れた。
削りに削ったあげくの簡潔さがそのまま力強さになっている、象徴性の漂う文体である。
ただより肝要なのは、素材が土着日本の説話や伝説でありながら、
仕上げはおよそ日本という特殊な土地から離れていることだと思える。
ハーンの用いた原話と再話作品とを比較するとほとんどの場合、
要所要所にハーンの手が入っているために両者が非常に異なっているのが分かる。
たとえば、「むじな」の原話は笑いの要素の強い化かし話だが、
ハーンは可笑しみを除去して”顔のない存在”に対する心理的恐怖感を中核にし、
ハーン特有の時空感覚のおりなす形而上的な説話に仕立てた。
そしてハーン以前の日本人の想像力のなかで”のっぺらぼう”はただ単に顔が異常に長い化け物
だったのが、この作品のために今は誰でも目鼻のない卵のような顔の人間だと思うようになっている。
話に当時の文学的流行を反映した西欧風衣装をまとわせることもした。
「茶碗の中」は原話の若衆趣味を排した上で十九世紀に多いドッペルゲンガー(二重人格者)の
物語のパターンを明らかにふまえているし、「雪女」は世紀末のファム・ファタール(宿命の女)
として造形されている。
その他の「和解」「宿世の恋」「おしどり」などの怪談でも、細かな道具だてや性格描写などで
ハーンの好んだゴーティエやフロベールとの歴然たる呼応をみいだすことができる。
それらの物語はにほんという特殊な舞台装置と筋の骨子を残しながら、仕上げは西洋風なのである。
そうなると、ハーンの筆を通して描かれる物語の世界は、日本であって日本ではなく、
また西洋を思わせながら西洋でもなくなってくる。
東洋でも西洋でもない不思議なファンタジー空間は民族の別など脱却して、
どこにもない所であるがゆえにどこにでもある所となり、
それゆえに作品に託された心象世界が一層浮き上がるのである。
「死者との遭遇」のテーマの変奏曲を奏でるハーンの怪談の世界は、ある意味で、
古今東西に見られる「再生の神話」の陰画、逆さ絵だともいえる。
再生神話が死者の蘇生に未来へむけての生命の永遠性の願いを宿らせるのに対し、ハーンの怪談は、
死者との合体を通して逆に過去に遡及する久遠の生命の継続性を問うからである。
そして素朴な民話を普遍的な神話の域にまで高めたのは、再話という手法であった。
ハーンは翻訳から文学修行を始め、紀行文におけるイメージの借用、日本文化論の価値転換、
と常に他の材料を用いてきたが、いま怪談において彼の手法の魔力が最大限に発揮されたといえよう。