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「待ったの巻」 奥山 紅樹

2014年08月14日 09時16分44秒 | エッセイ(模範)
 「待ったの巻」 奥山 紅樹

 待った、で頭に浮かぶのは、奨励会員・中原誠にまつわるエピソードである。
 ―――奨励会の対局で、中原誠は同門兄弟子の安恵照剛(現6段)と顔が合った。
指し進めるうち、中原誠に二歩のミスが出た。
 ―――兄弟子・安恵は、二歩を見た瞬間「元へ戻してもいいですよ」と小声で中原に言った。
 ―――すると中原少年は「いえ、けっこうです。負けました」。
言うが早いかパッと駒を投じた。
 「これは、えらくキツい子が入会してきたもんだと思ったねえ」
 とは当時を知る先輩棋士の回想である。

 「待った」をみずからに許すかどうかは、ルールの問題でもあるが、自尊心の問題でもある。
自尊心とは文字通り自らを尊ぶ心である。
自身を低きに置かぬアンビシャス(大志)があって生じるものであり、他人に対するくだらぬ見栄・意地とは関係ない。

 近年、自尊心の「質」がえらく落ちてきて、やたら自尊心をいたく傷つけられる女、批判されてカッとくる男がふえてきた。
自尊心の大安売りである。
 だが、本当の自尊心とは、奨励会員・中原のように、リンとした精神のありようから生じるものではあるまいか。
 「すみません、ついうっかりしちゃって。じゃ、お言葉に甘えて」
 などと言い、二歩をもどしていたならば、大棋士・中原は誕生していただろうか?

 「待った」が禁止されている理由は、それを許すと一局の勝負がつかなくなるからと以前なにかで読んだことがある。
だが本当の理由は、人の将棋上達に大きく有害だから禁止されているのだろう。

 上達と自尊心は密接に関係している。
「待った」厳禁ルールは、人間の成長・進歩と「やり直し不可」との関係を深く洞察した、先人の知恵というべきものであろう。

 奥山紅樹(おくやまこうじゅ)1936年生まれ。観戦記者。農林水産省職員を経て、赤旗記者。
著書に「プロ棋士―――その強さの秘密」「前進できぬ駒はない」(晩声社)など。
本編は「盤側いろは帳」(晩声社)から収録。

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