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「世の中に絶えて化粧のなかりせば」 その3 林 望

2015年10月24日 00時16分22秒 | エッセイ(模範)
 リンボウ先生から「女たちへ! 」  林 望  小学館文庫 2005年

 「世の中に絶えて化粧のなかりせば」 その3

 また、薄化粧、と言うけれど、どこまでが薄化粧で、どこからが厚化粧かなんてことは、あげて各人の主観であって、女のほうでは薄化粧のつもりでも男から見れば十分に厚化粧であるということも珍しくない。
 あの拒食症という精神の病を想起せよ。あれは、客観的には、だれが見ても「ひどく痩せている」としか見えないのに、本人だけは、「肥っている」というふうに自己評価をするのだそうである。だから、初めは薄化粧のつもりでもだんだんと厚くなっていって、しまいには、誰が見ても「厚顔無恥」的厚化粧にしか見えないのに、本人はなお「薄化粧でまだ足りない」と評価しているということになりかねない。
 だから、私の意見は、化粧は「薄いか厚いか」という選択ではなく、「するかしないか」という選択しかあり得ないということである。これが論理的に正当な判断で、それを程度の問題に帰するのは、「ごまかし」である。
 つまるところ、たとえば、たばこを吸う人が、禁煙しろと言われて、「本数を減らしました」と言い訳しているようなものなのだ。一日二十本以上ならヘビースモーカー、なら、ちょっと減らして一日十八本にしたから大丈夫だろう、とそういうことを言っているのに等しいというふうに言わざるを得ないのである。
 だから、そこから当然に第二の問題も論じ及ばれる。
「清潔できちんとした」という表現のなかには、ただに、外面が清潔であってというだけのことでなく、内面の清潔さ、言いかえれば、自己を直視し、自己を受容し、真剣に等身大の己をもって他人と対峙して生きる「潔さ」が含まれる。
 自分をごまかそうとしてはいけない、とそこがすべての出発点である。
 色が黒いなら黒い、白いなら白い、しわだらけならしわだらけで、そういうすべての自己というものを、もしあなたが、真面目に真剣に力を尽くしていままで生きてきたのであれば、なにら「隠す」ことは必要のない道理だ。そうではないか。

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