民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「秋刀魚の骨」 池部 良

2016年09月05日 00時16分50秒 | エッセイ(模範)
 「秋刀魚の骨」 エッセイ集「そよ風ときにはつむじ風」より 池部 良 新潮文庫 1995年

 「あなた、いやよ」とおふくろが金切り声を張り上げた。おふくろがおいしい処は後で、と大事に残しておいた秋刀魚のお腹(なか)をおやじに横取りされたのだ。
 秋もようやくの日、柱時計が夜の七時を鳴らす。一家四人食卓を囲んだ。おかずはおやじの大好物、秋刀魚の塩焼き。如何に大好物だからと言っておやじには三匹、おふくろと僕達子供には一匹というのは解せない。文句を言えば殴られるから文句は言わないことにしたが、早くも三匹は食べつくしおふくろの分に手を出すってひどいじゃないかと思ったが此れも抗議はしないことにした。
 おやじはおふくろから横取りした脂(あぶら)のごっとり乗っているお腹の身を大きな口を開けて投げこんだ。おふくろも一言言えば百言は返って来るのをよくよく承知している。黙って顔を伏せ自分の皿の僅かにこぼれている身を拾って食べた。
 うまそうに顔の皮を弛ませていたおやじがぱっと立ち上がり頬ばった口を押さえて縁側に飛び出し庭に向かってぶあっと吐いた。吐き終わり荒い呼吸をしながら浴衣の袖で口を拭いた。
「血だ。しまった。お篁(こう)(おふくろの名)、布団、敷いてくれ胃潰瘍だあ。もうすぐ死ぬぞ」とどなって寝室に駆けこんだ。
 毛布を顎まで掛け目を閉じたおやじは咽喉(のど)をそっと撫で、「あれだけの血が出たから重症に違いない。俺は死ぬと思う。遺書を書いておいてやる。紙と筆を持って、イテテ、来い」。
 おふくろは死ぬ、死ぬと言われ狼狽(あわて)て巻き紙と硯箱を持って来た。僕と弟も枕元に正座させられたからおやじはほんとに死んじまうのかと思った。
「お篁、俺は死ぬ間際だ。動けねえ。代わりに書いてくれ。イテテテ」と言う。
「一つ、お篁、永い間世話になりました。心の底から感謝します。愛していました。二つ、うん、そうだ。良、お前杉田先生を呼んで来い。お前達のために助けて貰えるかも知れねえからな」と僕を追い払うような手つきをした。
 杉田医師の家まで子供の駆け足で二十分はかかる。木立が覆う暗い露路を抜け僕はひたすら走った。杉田先生は長身、長い顔、見事に禿げている六十歳に近いお方だった。
 先生は唇をへの字に結びおやじの腹を入念に触って診察してから「口を開けて」とおやじに言い診察鏡を禿げ上がった額に掛けおやじの口の中を永い時間をかけて覗いた。おふくろは「御臨終です」という言葉を浮かべ、僕は「死んじまったら何も買って貰えないな」と思った。
「骨が刺さっとる」と杉田先生が言った。
「ホネ?」とおふくろ。
「咽喉の奥に魚の小骨が刺さっとる。血は吐き出すとき刺さった処から出た血だな。胃潰瘍なんぞ、何もありはせん」
 おやじの右腕が毛布の中から伸びて、書きかけの遺書を掴み布団の下に挟んだ。

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