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「本居宣長」 天地は不思議に満ちている その2 吉田 悦之

2016年03月31日 00時25分49秒 | 古典
 「日本人のこころの言葉 本居宣長」 吉田 悦之(本居宣長記念館館長) 創元社 2015年

 「天地は不思議に満ちている」 その2 P-14

 そんな一見学問とは無縁な時間の中でも、頭の中に構築したデータベースを駆使して、たえず考え続ける宣長ですが、しかし一方では、「人の智をもってはかり知るべきことにはあらず」と、人間の知識や知恵の限界をよくわきまえています。そして、人が不思議を受け入れることができないのは、理屈で万物を説明できると考える悪癖(これを宣長は「漢意(からごころ)」と呼びます)に染まっているからだと言います。
 たしかに世の中は不思議に満ちているのですが、といって「無闇にそのことを言い立てたり、ありがたがったりするのは愚かだ」と釘をさすことも忘れません。驚異に目を見張りながらも、いつも醒めているのです。「理性」にも酔わないし、また「不思議」にも惑うこともありません。エンドレスで考え続けたからこそ、世界のさまざまなことに驚いたり、恐れたり、発見をしたのでしょう。そして、そこに人間の知の楽しみ、生きることの面白さを見つけることができたのです。

 宣長にとって、先入観とか常識とは、たとえていえばサングラスのようなものだったのではないでしょうか。それは私たちの目をまぶしい外光から守ってくれます。しかし時にはそれを外し、その無効に広がっている未知の世界の広さに思いをいたすこともまた必要なのです。
 そのようなとらわれない自由な目(「古学(こがく)の眼と宣長は呼びます)を持っていたから、古典の真面目さに気がついたのでしょうし、常に前向きで生きていけたのです。そして「あやし」の存在を認めることで、私たち人間の世界の豊かさをよく知ることができたのです。

 (作者 注意書き)原文は原則として新字体・現代かなづかいに改め、読みやすくするために、適宜、ふりがなや句読点をつけるとともに、かなを漢字にするなどの調整をしました。和歌・俳句は、旧かなづかいのままとし、ふりがな、濁点をつけました。

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