「日本人のこころの言葉 本居宣長」 吉田 悦之(本居宣長記念館館長) 創元社 2015年
「素直な心で生きる」 その1 P-58
月花を見ては、あわれと愛(め)ずる顔すれども、よき女を見ては、目にもかからぬ顔して過(すぐ)るは、まことに然るにや。 (『玉勝間』四の巻「うわべをつく世のならい)
(出家者が)月や花を見たら感動した面持ちになるのに、きれいな女性とすれ違うとき一瞥もしないで通り過ぎていくのは、本心なのか疑わしいものです。(現代語訳)
宣長は自分で考えて判断するという態度を、子どものときから生涯持ち続けた人です。
先入観を排したその考え方は、とてもシンプルです。
たとえば、お金には興味がなさそうなそぶりの学者に対して、お金があれば本が買えるじゃないかと笑います。ただ、あまりお金のことばかり言うのは浅ましいがと付け加えることを忘れません。
そんな宣長の目には、花鳥風月に感動する高僧が、美しい女性に対して無関心でいることは、いかにも不自然に映るのです。
宣長は言います、「誰でも美味しいものは食べたいし、よい着物は着てみたい。立派な家に住んで地位や名誉、そして財産、長寿に恵まれたらと、夢見ることは同じです。それが人間の本当の心、真心なのです」と。
欲望をむき出しにしろと言うのではありません。ただ、本当の心は秘められているという自覚は必要なのです。人の心には迷いや欲望もあれば、誤ることもあります。それを直視し、ときには怒り、また許し合いながら上手につきあっている。それが生きていくということなのです。
宣長は歴史が好きです。物語はもっと好きだったはずです。きっと人という存在そのものが好きだったからでしょう。
心を偽り、悟ったような顔をする人は、自分の目や心でではなく、理論や理屈で世の中を見ようとしているからではないかと宣長は言います。
(作者 注意書き)原文は原則として新字体・現代かなづかいに改め、読みやすくするために、適宜、ふりがなや句読点をつけるとともに、かなを漢字にするなどの調整をしました。和歌・俳句は、旧かなづかいのままとし、ふりがな、濁点をつけました。
「素直な心で生きる」 その1 P-58
月花を見ては、あわれと愛(め)ずる顔すれども、よき女を見ては、目にもかからぬ顔して過(すぐ)るは、まことに然るにや。 (『玉勝間』四の巻「うわべをつく世のならい)
(出家者が)月や花を見たら感動した面持ちになるのに、きれいな女性とすれ違うとき一瞥もしないで通り過ぎていくのは、本心なのか疑わしいものです。(現代語訳)
宣長は自分で考えて判断するという態度を、子どものときから生涯持ち続けた人です。
先入観を排したその考え方は、とてもシンプルです。
たとえば、お金には興味がなさそうなそぶりの学者に対して、お金があれば本が買えるじゃないかと笑います。ただ、あまりお金のことばかり言うのは浅ましいがと付け加えることを忘れません。
そんな宣長の目には、花鳥風月に感動する高僧が、美しい女性に対して無関心でいることは、いかにも不自然に映るのです。
宣長は言います、「誰でも美味しいものは食べたいし、よい着物は着てみたい。立派な家に住んで地位や名誉、そして財産、長寿に恵まれたらと、夢見ることは同じです。それが人間の本当の心、真心なのです」と。
欲望をむき出しにしろと言うのではありません。ただ、本当の心は秘められているという自覚は必要なのです。人の心には迷いや欲望もあれば、誤ることもあります。それを直視し、ときには怒り、また許し合いながら上手につきあっている。それが生きていくということなのです。
宣長は歴史が好きです。物語はもっと好きだったはずです。きっと人という存在そのものが好きだったからでしょう。
心を偽り、悟ったような顔をする人は、自分の目や心でではなく、理論や理屈で世の中を見ようとしているからではないかと宣長は言います。
(作者 注意書き)原文は原則として新字体・現代かなづかいに改め、読みやすくするために、適宜、ふりがなや句読点をつけるとともに、かなを漢字にするなどの調整をしました。和歌・俳句は、旧かなづかいのままとし、ふりがな、濁点をつけました。