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「つらい時、いつも古典に救われた」 清川 妙

2016年10月01日 00時12分08秒 | 古典
 「つらい時、いつも古典に救われた」 清川 妙 ちくま文庫 2012年

 「坂をくだる輪にはならない」 P-95

 このごろ、思い立って『徒然草』をていねいに読み直している。兼好法師の頭は非常に合理的で知的、筆は的確で歯切れがいい。
 気持ちがだれたとき、マイナスに傾いたとき、どうしようかと迷ったとき、そのページをパラパラとめくってみると、探しものをしていた心に、かならずピタリと寄り添う言葉がみつかる。
 たとえば、この一節など、一生を左右しそうな、おそろしいまでの深さを持っていると思えてならない。”ある者、子を法師になして”にはじまる188段のことばだ。

 (前略)行末久しくあらます事ども心にはかけながら、世にのどかに思ひて、うち怠(おこた)りつつ、まづ、さしあたりたる目の前の事にのみまぎれて月日を送れば、事々(ことごと)なす事なくして、身は老いぬ。終(つひ)に物の上手にもならず。思ひしやうに身をも持たず、悔ゆれども取り返さるる齢(よはひ)ならねば、走りて坂をくだる輪のごとくに衰へゆく。

 ――将来にわたって、こうしたい、こうなりたいというような夢を持っていながら、のんびりかまえ、怠けて、目の前のことに紛れて月日を過ごしていると、なにごとも達成できず、いつか年をとっている。その道のベテランになることもなく、いい暮らしを立てることもできず、ああ、しまったと思っても、もはや遅い。そうなると、まるで坂道を走り転がる輪のように衰えていくばかりなのだ――という意味である。

 なんとも耳が痛い。ズキンと思いあたるものがある。しかも、兼好のこの文章は真っ向から切っ先鋭く迫ってくる。

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