民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「声」 角田 光代

2013年12月10日 00時05分15秒 | エッセイ(模範)
 「佐野洋子」 追悼総特集 100万回だってよみがえる  文藝別冊  2011年

 「声」 角田 光代 P-50

 前略

 エッセイをそれまでも読んでいたが、佐野洋子はそのどれとも違った。
何が違うのかといえば、剥き出し感である。たいていのエッセイはエッセイとして書かれている。
たとえば私の大好きな向田邦子のエッセイは、完璧にまとめられている。小説のようですら、ある。
けれど佐野洋子の書いたものは、ただそこにある。エッセイというよりそれは声に近かった。生の声。

 このとき以来、私は佐野洋子のエッセイのファンになった。絵より絵本より、エッセイを求めて読んだ。

 はじめて読んだときから一貫して、声のまま。嘘がない。照れも気取りも見栄もない。
知ったかぶりもしない。嫌いなものは嫌いと書く。実在の人物でも、嫌いと書く。
おもしろくない本や映画は、おもしろくないと断じる。そうしていちばんすごいのが、おもしろいところだ。毒舌も悪態も揶揄も、ほかの人にもいくらでもできるし、書ける。
けれど佐野洋子はそれを、絶妙なユーモアでくるんだ。
そのユーモアにさえも、照れも気取りも見栄もないのだ。技だ。この人にしかできない技。

 佐野洋子の発し続けた声はいつでも生で、剥き出しで、素っ裸だった。
書き手になってから、それを一貫することがどれほどむずかしいか身をもって知った。
どうしてできたんだろう?とだから考えた。
佐野洋子という人は、他人も芸術も生活も未知も含む世界というものを、信用していたんだと思うのだ。
裸ん坊で出ていっても平気なところ。そして何より、そこに出ていく自分自身を信じていた。
裸ん坊で出ていっても無事に帰ってこられる自分。それはつまるところ、強さだ。
世界も自分も、佐野洋子はおそれていなかった。
私がこの人のエッセイを二十年以上ずっと好きなのは、つまるところそうした信頼と強さに、
あこがれてやまないからだろう。

 中略

 今や、私は彼女のようなエッセイが書きたいのではなくて、彼女のように生きたいと思うに至っている。


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