民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「で、まあ俳句でも」 小林 恭二

2014年12月12日 00時14分41秒 | エッセイ(模範)
 「ベスト・エッセイ」 2014  日本文藝家協会編  光村図書

 「で、まあ俳句でも」 小林 恭二(作家)  P-189

 前略

 唐突だが、最近俳句を始めた。こう書くと何を今更といわれそうだが、俳句についてあれこれいうのは好きだったが、二十三歳で俳句をやめると友人たちに宣言して以来、まともに詠んだことはなかった。やめた理由はいろいろあるが、こんな面白いことをやってると人生が駄目になると思ったからだ。ただ死期が近づき(主観的にだが)我が身一身の幸福を願うようになると、人生駄目にするのもまたよし、いやもともとさしたるものでもないんだから、死期を迎えたときちょうどゼロになるようにこつこつ駄目にしてゆくくらいの方がいいのではないか、そのためには俳句が絶好な小道具になるのではないかと思い至った。

 俳句がどう人生を駄目にするかについては、晩年の芭蕉のエピソードをもって換えよう。芭蕉は辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を詠んだとき、なかなか句形がまとまらず苦吟した。そのうちにはたと気づく。「わしは今死のうとしているのだ。こんな馬鹿げた発句に時間を使うよりもっと大事なことがあるのではないか」。が、そうはいっても句が気になってひねくりまわした挙句、渇出のようなかたちを得、而(しこう)して死んだ。句を気にするあまり、人生でもっとも大事なこと、すなわち死を忘れたのである。これはこれで幸福であったとすべきではないか。如何(いかが)。

 「新潮」五月号

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